人を値踏みしない

私は今まで人に質問してはいけないことと質問しても良いことを、あまり意識せずに分けてきた。

例えば

どんな家に住んでいるか?
年収はいくらか?
恋人はいるか?
学歴はどうか?
などは、無意識に質問してはいけないことカテゴリーに分類し

どこから来たのか?
何を目的としているのか?
子供に「何歳か?」と尋ねる
などは、質問しても良いことに分類していた。

前者の質問は敢えてインデックスをつけるとすれば、社会的ステートを確認する作業であり、もっと端的に言えば自分より優れた人間かそうでないかを見分ける指標にするための問い、
後者は、今にスポットを当て、相手の状況を浮き上がらせるための問い、
とでも言えようか。

ただ、たまに大人相手に年を尋ねたり、偶然未婚・既婚の話に及べば、配偶者の有無を尋ねたりしたこともあったろう。
その問いをするときの自分を遠くから眺めると、相手を値踏みしようという魂胆を抱えた卑しい表情が透けて見える。

相手と話をするのに、自分の心の中に相手のポジションを当てはめるための情報収集をしてからでないと、本人に目を向ける気持ちになれないという自分、いかがなものだろうか?
私は本当にその人の姿を見てる?

見るというのは非常に鍛錬の要る作業だと思う。
気を抜けば途端に「値踏みしたいという魂胆」が陥入する。
そんなに値踏みしたいのは、私自身が不安だからだ。
値踏みしているそれで、私は一時の不安を払拭しようとしている。
けれどそのような形の払拭は、自身の安定にまでは到達せず、場合によって圧倒的に優れた相手によって打ちのめされる危険性すらある。

心で人を見る。
目の前に見えているものではなくて、目の前に見えている状態に到着するまでの道のりを想像する。
それこそがその人を見るということ。

今ほんの少しだけ、見るということの殻を破ろうとしている自分がいます。
それが出来る見通しが立てば、カウンセリングを受付ようと思います。
しばらくお待ち下さい。