多様性が求められる世界で求められるもの

疑問に思うことがある。
自分が病気などによって、日常生活に支障が出たとき、「この病気はまだ世間で十分知られていない。だから世間は冷たいし、生きにくい」と言っている当事者。
あなたが健康なとき、どれだけ障害を持つ人に理解を示せていただろう?
そして、今の身体になったとき、どれだけ他のマイノリティーに理解を示せているだろう?

自分の事は「配慮が必要だー、理解してくれ~」といいながら、他人のことはお構いなし、もしくはお構いなしだった。

権利だけ主張して、自分はかわいそうな身と労りを求めるのは、ずいぶん都合よくないか?

病気をきっかけに心を入れ替えたのならば、自分の至らなかったところを少しは反省するもの。
だが、そういう声は一向に聞かない。
なんなのだろう、この弱者に転じたときの強行理論。

多様性のある今日の世界は、障害を負う者も、そうでないものも、マイノリティーもマジョリティーも全てが受け入れられ、共存の道を探すことが求められる。
自分の置かれている状態だけに拘らず、あらゆる可能性、存在性に目を向けて、立ち止まり考えることが、今の時代を生きる全ての者に課せられる責務ではなかろうか。

と、ちょっと思ったのでメモ。