偶然の同じは共感の継続を生まない

マイノリティーながら偶然同じ境遇の人に出逢うということがある。
そのとき、他の人とは分かりあえなかった苦労を分かち合って、心から分かりあえる友を見つけたと嬉しい気持ちになる。

でもその分かりあえる気持ちは、同じ境遇だから分かりあえたのであって、自分の想像力が豊かだったり、辛抱強く相手の話に耳を傾けられたから理解できたのではない。

従って、時間が過ぎ、状況の変化が起きて違う境遇になってしまうと、あのとき感じた分かりあえる高揚感はもう手には入らない。

心の友、本当の友、心許せる友、信じられる人という強い親愛を抱いた相手とは、永続的に「分かりあえる」を続けていきたいと誰しもが思うだろう。
しかし、一時親愛を抱いた相手と継続して共感を共有できる人は少ない。
なぜなら、ずっとそこに留まる人などいないからだ。

みんな違う、みんな別々の道を行く、みんな経験することが異なる。
そんな”みんな”が誰かと共感をするには、自分と違う相手を理解しようと努力することであり、違ってしまった相手をそのまま受け入れるということである。

「前は、こうだったじゃない!」と相手を責める人がいるが、それは前のお話。
契約などの約束事でもない限り、こうだったことはその瞬間の状態でしかない。
唯一自分に残された選択権は、変わってしまった相手と歩むことか離れることか。
害のある方向(支配的になる等)に相手が変わったなら、仕方ない、離れるのがいいだろう。
でも単純に相手が異なる考えをもっただけなら、せめて知人としてでも繋がっていられるんじゃないだろうか?

共感なんて幻。
ある瞬間のスパークみたいなもの。
それはそれで熱を帯びた素敵な思い出だと思う。
けれど火花は散ったら終わり。
そういう儚げな物だと理解して、自分の記憶に留めておこう。

いいじゃない。
花火は夜空を一瞬飾るから、儚い美しさが人を魅了する。
共感もそんなもん。
だから価値がある。