この言葉を聞くと胸が締め付けられる

他の人にとってはなんともない言葉が、私には息苦しい。
「一流の流儀」の「一流」
「勝ち組」の「勝つ」

一流が存在するのは、二流や三流があってこそ。
では、二流や三流と言われる人は気持ちいいのだろうか?胸を張れるのだろうか?

勝つのは負ける人がいてこそ。

スポーツ試合のように、勝敗が明かな場合は、潔く勝ち負けを決められる分スッキリとしているが、人生の勝ち組とかっていったい何?
自分は負け組と思って、嬉しい人はいるのだろうか?

尊敬する田坂さんが著書の中で、
「太郎君を褒めると、花子ちゃんが『私はえらくないの?』と疑念に思う気持ちが発生する」ケースを取り上げていた。
まさに、その二元論的考えそのものが、世界に見えない境界を引き、境界からあぶれた人々は合否の烙印を押されるかの如く、自分にレッテルを貼る愚行を誘っているようでならない。私はその事に息苦しさを感じている。

精神疾患が疑われる者に、病気のレッテルを貼ることを良しとしない考えを持つ医者がいるということを、何かで読んだことがある。
そのレッテル付けこそが、その人の可能性をひどく狭めて、また甘えの世界への逃避行の扉を開いてしまうような気がしてならない。
人は一度決められたフレームに、わざと自分からはまり込みに意向とする。
そうやって、あやふやな自分を、分かりやすい自分に当てはめて、安心したいのだ。

がしかし、自分の状態というは時々刻々変わるものであり、田坂氏の話に寄れば、時と場合によって我々は場に適したペルソナ(人格)で対峙するのだから、分かりやすくはないはず。
一定の法則っぽいものがあるよね♪程度のものだと思う。

それを不動かの如く「こうだ!」と言い切れば途端に、ヒトラーのような独裁者臭が漂う。
私は、それがたいそう苦手だ。
たぶん我々に出来ることは、自分の中にある何かをただ見つめることだと思う。

見つめて、その先に湧いたイメージや思いをそっと後押しするくらいが、自分の行き先を方向付ける方法なのではないだろうか?

絶対悪も絶対善もない。
その真理において、絶対を確定づけたかのような印象を与える二元論的物言いは、その人がその場に留まって見つめること、包み込むことを放棄し、不作法に無思慮に感情に突き動かされるまま、ただただ行動をしている愚か者の横暴さを表すように思う。