不倫や浮気をしている人が可哀想になってきた

世間では、不倫や浮気は糾弾の対象だ。

責められ、叩かれ、身ぐるみはがされて当然(フンッ!!)って感じがする。
確かに裏切られた方からすれば、報復されて当然と考えるだろう。

だが、ひと度見方を変えれば、浮気をする人は可哀想な人である。
今日は、その可哀想ぶりについて考えてみたい。

いつまでも満足しない愛情の砂

人は両手いっぱいに何かを抱えているとき、それ以上は求めない。

同じく両手いっぱいの愛情を抱えている人は、それ以上の愛情を欲しがらない。

両手にまだすき間がある人だけが、あっちへ、こっちへ手を出す。
そうやって一過的に愛情を求め、隙間を埋めようとする。

埋められた瞬間、心は安心でいっぱいになる。
でもそれがなくなった瞬間、またすき間ができる。

すき間が出来ては埋まり、出来ては埋まりを繰り返し。
すき間が空きっぱなしの人からすれば一時でも埋まることにうらやましさを感じるかもしれないが、いつも空間が埋まっている人からみみれば、なんとも刹那的で不安定に見える。

結局、すくい上げた砂のようにさらさらと落ちていく愛情は、愛情であって愛情ではない。
刹那的な愛情を求める旅は、延々と続く。

愛情に点数をつける愚行

その旅は、数をこなせば終わる、というものではない。

経験は増えるだろう。スキルは伸びるだろう。
けど、だからといって幸福になる手段が身についたわけではない。

むしろ愛情を消費する、というとんでもない方向へと傾いてしまう。
いわずもがな、愛情は消費するものではない。

ところが、愛情を金品と交換している内に、愛情に点数を付けるという愚行が身についてしまう。
その行いがよりいっそう、己を幸せから遠ざける。

本当に幸せな人は、点数で愛情など図らずとも、そこに「愛する人」がいればそれでいい。

不倫をする人は受け身

異性を強く求める人は「肉食系」と言われており、果敢に攻めてるイメージだ。

でも私はあえていいたい。
ちっとも攻めてなんていない。振り回されてるだけ。「受け身」だ。
欲望を欲望のままにしておく、ということは、欲望の手綱を引いていないということ。
欲望という暴れ馬を暴れされたままにしておく馬主が、馬を乗りこなしていると言えようか。

むしろ欲望に支配されている。
欲望が「主」で人間が「従」だ。
そこに人間としての理性や思考といった人間たらしめるものはなく、ただただ動物的なふるまいだけが残される。

幸せの放棄が動物たらしめてる原因

人として味わう幸せが手に入らないとき、人は動物としての欲望に走る。

動物としての欲に身を任せている間は、自分が不幸な人であるという事実から目を反らせるからだ。
一種の自己防衛といえよう。

そうやって、逃げて、逃げて、逃げて、さいご捨てられる。
これがエセの幸せを追い求めた人間の末路だ。

死後離婚されるのは、このような生き方をしたタイプ。
死後の世界でまで捨てられるとは、なんとも可哀想な人達。

本当の幸せを手に入れるには?

じゃあ、異性に走るのは間違った幸せの求め方だとして、真実の幸せの求め方は他にあるのだろうか。

あると思う。
簡単には見つからないけど、あると思う。

そして、それに気づくにはたくさん【自分の内面】と話をすることだ。
自分は何を求め、どう生き、どう与えたいのか。
それを探る。

幸せの定義は人それぞれで、求めるものも与えたいと願う物もバラバラ。
ただ、そこには【自分と話して決める】という共通事項がある。

私はその名人が田坂広志さんだと思う。
田坂さんの本はどれも、「我」と話す方法を導いている。
自分の考えが如何に甘く、流されているかを分からせてくれる。

ぜひ、このコラムなど読んでみられてはいかかだろう。
diamond.jp

田坂氏著書

仕事の技法 (講談社現代新書)

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知性を磨く― 「スーパージェネラリスト」の時代 (光文社新書)

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