母の概念丸写しだった自分

先ほどのブログで書いた「女子の憧れであるウェディングドレスに興味を示さず」が引き金となって、ウェディングドレスとはなんぞや、と考えが走り始めた。
暇な人だけ、おつきあいください。

私の中のウェディングドレス

私はファッションや洋服は好きだ。欲しい服がなければ自分で作ってきていた。
学生の頃はショーをチェックして、素材やカッティングのすばらしさに心奪われていた。

ただしショーで出てくる洋服を着る意識は微塵もなかった。作品として美しいか、そうでないか、を判断したに過ぎない。

ウェディングドレスもショーの先にある、「私が着るものではない」筆頭だったのかもしれない。

ウェディングドレスが私の着るものでなくなった理由

母親は昔から、人をけなすのが大好きな人だった。けなす相手は他人だけに留まらず我が子にまで及ぶ。
私は「平安時代に生まれていたら美人だった」と言われた現代ブスとして扱われた。

ウェディングドレスは、いうまでもなく海外の文化だ。「平安の時代顔の私にドレスなんて似合わない」。幼心に思った。その思いが今日に至るまで私をドレスから遠ざけている。
三つ子の魂百まで、はこういうところにまで波及する。

ウェディングドレス姿の人を見て想うこと

私は自分に「ドレスの似合わない人」のレッテルを貼ると同時に、もう一つ手に入れたものがある。

それは…
太っている人、美しくない人(と私が思っている)人がドレスを着ることへの批判だ。
”こんな人がよくドレスなんか着て人前に出られるもんだ”と毒づく自分を手に入れてしまった。

ウェディングドレスを着る人は、その日の自分が自分史上最高の美しくあるために努力する。なのに私はその努力やかわいらしい乙女心に目もくれず、私個人の定規で美しさを判断し、見下してしまっていたのだ。

ウェディングドレス一つで分かる毒牙

私は自分が如何に親そっくりの見方をしているのか、に気がついた。
相手に視点を合わせることなく、自分が正しいと疑いもしない愚かさにも。

美しさというのは、内側から滲み出るもので、形だけで判断するものではない。
そんな当たり前のことにも気づけないほど、濁っている我が目。

三つ子で毒された目が、澄んだ眼に立ち返る日はあるのだろうか。