ちょっと前にいただいたコメントが自分の中で引っかかっていて、浮かんでは消え、浮かんでは消えしています。
斉藤学氏の本の中にあった言葉を思い出しました。
「あなたのすることは全て、
自分を守っているためにやっていることです。~中略~
「生き残り」のための必死の努力なのです」でも何か都合よく、
上記の言葉を自分の言い訳にしてしている感じがします。
齋藤学(さとる)さんはIFFという総合メンタルケアの会社を運営されている有名な方です。
多くのクライアントと接し、アダルトチルドレンに関する知識も相当なものだと思います。
けど、そんな有名な人が発した言葉も受け取る人によっては、どこかキレイ事に映る。それはなぜなのでしょうか?
第一印象
最初に浮かんだキーワードは
逃げか? 必要か?でした。
ちょっとホッとする言葉は、自分に甘いです。
辛い現実を見たくなくて、逃げるために、甘いところへ行こうとしている。
そんな自分でいいのか?
そう、思いました。
でも一方で、人間辛いだけじゃ~やってけないよね、だから一旦安全な処まで引くけど、それは進むために必要な後退さ!
だったら、ちょっと楽できるところって必要じゃないか?
とも思いました。
私が嫌いなキレイ事
私は、自分がアダルトチルドレンであることはすんなり受け入れられるのに、傷ついたインナーチャイルドを手当てしましょうといわれると、イラッとします。
それこそ、いただいたコメントのように”どこか都合よくないか?”という思いがこみ上げてくるからです。
ワタシ、カワイソウナヒト、ダカラ、ミンナヤサシクシテネ。
そういったら、周囲は優しくしてくれるでしょうか?
一生ワタシの面倒見てくれるでしょうか?
そんなうまい話ないだろ~。だってどんな人も生きるのに必死だぜ。ワタシが寄っかかってもいい先なんてない。
だったら、ワタシ、カワイソウナヒトという憐憫、不要でしょう。
情けは、一時の癒やしは生んでも、その人の成長を促したり生き抜く力にはなりません。
結局、役に立たないんだったら、やっぱりキレイ事だと思います。
ホンモノになりうる考えとは?
自分の中に入っていく、腑に落ちる考えを聞くとき、それが自分の変化を促すきっかけとなるのなら、一旦は受け入れてもいいと思います。
ただし、その考えを未来に引き継いでいってはなりません。
自らの力で、元の考えを変える。変えてみせる。これが出来たら、たとえ最初はキレイ事であっても、最後は、ホンモノになってると思います。