怒られるから・叱られるから「する」という動機を溶こう

何かをする動機が「怒られるから・叱られるから・責められるから」ということは、あなたの可能性を摘み取っている。
持ち得ている才能を使わず、ただ毎日を消費するのは、あまりにもったいない。
もっと生き生きと自由に生きるためにも、その動機を溶く方法を探ってみよう。

強迫的に「する」人

自分が何かをするとき、億劫に感じる人、とワクワクする人がいる。
本来、どんな経験もワクワクなはずなのに、そうじゃない、ということは、そこに何があるのだろう?
どうしてワクワクを阻害するのだろう?

きっと、心のブレーキのようなものがあるに違いない。
ブレーキ・・・
そうだ!抑制の力。飛び出る好奇心をぐっと押さえつけてくる。
押さえつけてくるヤツの正体は、自尊心の脅かし。「怒られる・叱らせる・責められる」

ただ押さえつけるだけでなく、「やらなかったら、とんでもないことになるぞ!」という脅しまで付いてる。

やらざるを得ない、の方向へ導く極悪党。
それに屈するあなた。
仕方なしに、恐怖心にまみれながら、追い立てるように、「する」。

強迫的にすることが生み出す二次被害

”やればいいんでしょ!”と割り切れる心の強さがあるなら、まだいい。
弱いあなたには、もう一つ大きな悩みが頭をもたげる。

それは、「カンペキに出来なかったらどうしよう?出来に文句をつけられたらどうしよう?」。
「する」ことへの億劫さ、脅し、そして出来具合に対する懸念。
もう、三重苦である。

仮にまぁまぁの出来だったとしても、それが他人に評価され万全の支持を得なければ、自分にダメ出しをする。
重傷だと、万全の支持を得たとしても、その事実を受け入れない。

こうなったら、大成功も大失敗に転回してしまうわけです。

強迫的に感じるな!という言い聞かせは役に立たない

だからといって、三重苦を背負った人間に、「強迫的に感じるのは主観の問題だから、気持ちの問題だよ」というアドバイスはナンセンス。
そんなに簡単じゃありません。

適切な視野の広げ方を習って、気づきを積み上げた末に、「する」ことへの違う目線があることが腑に落ちなければ。

その治療は多少時間が掛かります。
今までずっと、恐怖の世界にいたのですから。

でも1年くらいコツコツと積み上げていけば、どこかで気づきが自分を解放してくれます。
それが重なると、思い込みが溶けてきます。
じっくりと腰を据えて、取り組んでみませんか?