おしゃれブロガーが批判されるワケ

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の考察をさらに深めていきます。

おしゃれブロガーが批判を受ける理由について、さらに深く考えていきます。
我々はなぜ、おしゃれブロガーを批判せざるを得ない穴に落ちてしまうのでしょうか。

批判を誘い込むループ

おしゃれブロガーは、コレじゃなきゃダメ!と言っているわけではありませんが、これ【も】いい、ではなく、これ【が】いい、と自分のセンスを特別視している雰囲気を醸し出します。
同じ位置に属する人にとってはなんでもない与太話が、そこに立ちたいけど立てない人にとっては自慢話に聞こえる。「あんたなんか入ってこれないよ」というガードに見えます。当然入れなかった人は、傷つくと同時に腹が立ちます。

その怒りの矛先をブログに向けます。”エアーパーティじゃないの?夫からの贈り物じゃなくて自分で買ったアクセサリーじゃないの?”と様々な憶測を立てて、叩きに入ります。調べてみてそれらしき証拠が出てきたら、なおさらその動きは加速するでしょう。

叩いてる間だけは、傷ついたことから目を反らせるし、勝った気分になれます。
つまり、これはブロガーによって傷つけられた心の防御反応なのです。

ブロガーの特別視が排他感を生み、排他感が怒りを生み、怒りがブロガー叩きを引き起こす。
このループが、おしゃれブロガーへの批判を強めていってます。

おしゃれブロガーにたりないもの

排他の反対は、許容です。
相手も参加できる余地を残す。そうすれば読者は傷つきません、怒りません。
読者のセンスもアリという余地を残すことによって、互いの干渉を避ける。きちっと距離を取る。もちろん優劣もない。

ブログとは本来、これくらいドライな関係です。

ところがブロガーが自己顕示欲を振りかざして特別感を醸し出すから、読者の感情が絡め取られて、怒りに発展してしまっている。
この六道で言うところの「餓鬼」同士の戦いは、一体誰の得になるのでしょうか?

人の考えに触れるのは、思考の幅を広げる豊かな行為です。
それが、貧しい「餓鬼」に落ちてる、ということは、表面は豊かに見えて中身は真反対の行為、というエセ動作です。

せっかくおしゃれなセンスを身につけているのですから、その才能を遺憾なく発揮するために、つまらぬ自己顕示欲は捨て去ることです。そして、ブログというツールを使って、センスアップの方法を提案していく。そういうわきまえが必要ではないでしょうか。

批判の集まるところにあるものとは?

おしゃれブロガーのように、批判を集めてしまうものに共通する事項は、「敬意」のなさです。
自分だけが優れていると勘違いし、優れている具合を吹聴することは、間接的な他者への侮蔑です。

バカにされて怒りの湧かない人はいません。
当然反撃します。それが批判の塊として出てくるのがネットの掲示板。

掲示板には「こんなにコケにされてくやしい。」という人々の魂の叫びが幾重にもなって表れます。
裏を返せば、それだけ多くの人は「敬意」を払われる世界とはほど遠い生活を送っている。

「敬意」を払うとは、あなたの意見も聞きたいです、という意思です。
意見を聞きたい、ということは、相手に”あなたがもっている思考は、なにやら優れているかもしれぬ”という期待があるということ。
あなたの才能に一目置き、あなたの言葉で自分の考えを変わるかもとワクワクしている状態。

この状態で話をすることを、対話をする、といいます。
既知の価値観に縛られることなく、未知なる人々の思考に触れて一緒に考えたいと参加者を集い、その場にある言葉に耳を傾ける。
これなら誰もが参加でき、自分の存在を感じることが出来る。

対話がないから、人々は怒る。
つまはじきにされるから、人々は怒る。
傷つけられた人々の怨念は、ものすごい力となって、世界を支配します。
そんな力を生み出す土壌としてブログがあるとすれば悲しいですね。

影響力のあるブロガーには、良き想いが集まるように、対話をしていって欲しいと願います。