自分を磨く、ということはどういうことか?

自分磨きに余念のない女性。
ワイン教室に、ネイルサロン通い、英会話にテーブルマナー教室。
社交界にデビューするためなら、それは必要な知識となりそう。

でも、その予定がないなら、磨く方法として合っているのだろうか?

磨くのは頭?それとも心?

スムースに会話しようとすると、同じくらいの知識が要る。
単語一つ一つに詰まって、話の腰を折ってしまうと雰囲気が台無し。
だから教養は必要だ。

身を置く世界に準じた教養、振る舞いを身につけるのは、最低限のルール。

だが、凡人が身を置く場所はそんなにスゴくない。
一般教養程度の知識と、社会人経験があれば、おおよそ乗り切れる。

それに対して、心。
あるとき、怒りにまかせてこんな行動をしてしまった。自分勝手な振る舞いをしてしまった。
そういうとき、「まっ、しょうがないか」と諦めるのか、「本当はもっとエレガントな返し方があったんじゃないか」と省みるのか。
対応の違いで、今後の身のこなしの優雅さが変わる。

果たして、凡人が磨きつづけなければならないのは、頭(知識)それとも心?

たゆむことなき心磨きが尊敬を生む

優れた経営者の本を読んで、この人は本当に尊敬するな~と感じる人と、この人の戦略はすばらしいけど自分とは無関係、と思う人がいる。
両者とも甲乙つけがたく優れているのだろうけれど、前者は「たゆむことなく」磨き続け、後者はあるときは磨き倒したけれど今はそうでもない、という違いがある。
磨き続けた人は、我々凡人にも通じる域まで達しているため、雲の上の人でありながら、言っていることはすっと入ってくる。実践できそうな気にさせてくれる。

私たちにも分かる思考は優しい。
どの人も分け隔て無く受け入れてくれる。
自分を磨き続けている人は、磨けない人の痛みまで見通す力を持っている。
だから心を打たれる、尊敬できる。

誰かに受けいられるために自分磨きにいそしんでる人が心すること

「誰かに受け入れられるため」という欲。これを持ち続けると、どんな磨きも脅威になる。鋭すぎる刃となる。
相手はしとめられそう、という危機を感じて、すたこらさっさと逃げていく。

鋭い刃は、許容とは真逆のもの。「こんなに磨いたんだから、あなたもこれだけ磨いてね」そんなささやきは恐怖でしかない。磨くことは、自慢することでも押しつけることでもない。だが自分磨きをした側は、そこに投じた時間やお金を、きっちりと回収できなければ気が済まない。だからものすごく欲深い。

欲深い人の欲は底なし沼だ。皆、それを分かっているから、距離を保つ。当然誰かに受け入れられる時は訪れない。

受け入れられるということは、相手が寄ってきやすいということ。相手が寄ってきやすいということは、そこに心地よさがあるということ。心地よさがあるということは、どんなことも受け入れてくれる度量があるということ。
度量を大きくするためには、自らを省みるしかない。自分の正義を疑い、相手の正義を見ることをせずして、器は広がらぬ。
だから心を磨く。プライドを叩いて平らにする。

自分磨きの本質

磨くという言葉が、いつの間にか鋭くすることに変質してしまっている。
磨くのは、曇った鏡。
自分を映す鏡。

そこに映る自分は、今の磨き具合だと、ここまで見える。でも研磨すれば、もっと奥まで見える。
磨き続けるほどに、鏡に映る自分はより詳細に、明瞭に映し出される。
その自分は見るに堪える自分であろうか。

きっと耐えないだろう。でも耐えられる自分になるために、自分を省みる。そしてもっと見るために磨く。その連続。
磨くことは終わらない、生涯掛けて鏡に映る本物の自分を見つける。
それが本質。終わりのないなにか。