他罰的な考えは何も成長させない

(2018/01/16 修正・加筆)
我々は他者が他罰的な考えをしているのを見ると、嫌悪感を覚える。

「○○のせいでそうなった」
「私は悪くない。周りが気付かないのがいけないんだ」

いつも誰かを悪者にして、全責任を押しつけて、省みることがない。

このように思考のストップした状態が続いている間、自らの成長は止まる。
関わっている以上、「自分にまったく責任がない」とはいかないだろう。
自分が気をつけていれば…、自分が気を廻していれば…という部分は少なからずあったはず。
自分の能力のなさを棚に上げ、出来なかったのは外的要因のせいだと決めつけるのは、あまりに怠惰である。

反省がもたらす利点

考えることを辞めてしまえば、同じ失敗を繰り返す。
反省を踏んでれば、別のアプローチから以前よりもいい結果につなげられる。
それだけではない。省みる行いは、魂を磨くような謙虚さがあり、それを見た他者にも反省を促す効果が期待できる。
だから自分のためにも周りのためにも考えることを辞めてはいけない。

考え続けると、YESかNO、二つしかなかった選択肢に三つ目が現れる。それは、我々を自由にする考えの突破口となる。

このことに関してある弁護士が言っている。
「人を自由にするのは、その人の手にどれだけのオプション(選択肢)が握られているかだ」と。

方法があればあるほど、選ばなくてはならないという縛りから、どれを選ぼうかという自由へとシフトする。我々に選ぶ主導権が移るのだ。
これに対し、他人を責めたときの選択肢はたったの一つ「オマエが犠牲になれ」。これは不自由なだけでなくカードとして弱い。犠牲になってくれる人が逃げたら、お手上げだ。

楽が必ずしもいいとは限らない

他罰的な態度は、不自由でカードとして弱く、尊敬を集めることもできないサイアクの選択だ。確かに心理的には楽かもしれない。けれど楽であればあるほど、人はあぐらをかき、学ぶことから遠ざかる。きちんと省みて出来事を逆境と捉えた方が、多くを学べ、新しい考えにたどり着ける。

結局、他罰的シェルターに身を隠す時間が長くなるほど、自由は失われ、みんなからつまはじきにされる。他罰的姿勢は、自らの首を絞める自殺行為である。