目の前に実物の子供がいるのに、子供のいない家庭

目の前に子供はいる。声も聞ける、触ることもできる、体温も感じる。けれどまるで子供がそこにいないようにふるまう家庭があります。そこには子供という意思ある存在がいないのです。

いるのは、子供型ロボット。

とくに40代以降は、そういう存在でいさせられたと思います。私達は、人間であって人間でなかった。今になって思い返すと、納得もいきませんし、なかなかひどいなと思うのです。社会に出たら意思を持たなきゃなんないのに、家庭では意思をもっちゃだめって、どんな矛盾だよ。

その一方で、いまだ子供型ロボットが求められ続けている。うーん、これでいいんでしょうかね?

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取り残される子供たち

私達が子供の頃、子供の存在意義ってなんだったでしょう。

一番は、「家族」を構成するのに欠かせないピース。今と違って、昔は家族をつくるのに、子供は必須アイテムでした。子供がいて初めて一人前、父母になってやっとまとも、そんな風潮にあったと思います。

そんな時代に、子供というのは、まず五体満足であること、次に平均以上の能力があること、そしてあわよくば自慢の種になってくれること、を期待されていたと思います。

ようするに、子供というのは、大人が肩身の狭い思いをしないためのツールだった。そういう中にあって、子供も子供なりに苦労を強いられるわけです。人間関係、学校の成績。子供社会のしがらみに、涙することも、投げ出したくなることもあった。

けれども、大人は子供の気持ちなど取り合う気も無い。誰にも分かってもらえないまま子供は孤独に膝を抱えます。親だけが一人前になれた自分にご満悦で、子供は孤独に耐える、これが一般的な家族のあり方でした。

自尊心の育たぬ子供たち

自分がどう思っているのか、を汲まれる経験をしないと、人は感情を「大したことのないもの」に位置づけます。感情などなくても、結果さえあればいい、と。しかし、いざ試されるとなると、心が空っぽで踏ん張りが効きません。せっかくのチャンスもみすみす逃すはめになります。

その一方、友達はおちゃらけながらもチャンスを手にしていて、チャンスをモノにできない自分がよけい惨めに思えて、「自分はつまらない人間」という思い込みに拍車がかかります。一度思い込んだら、なかなかそこから抜けることが出来ません。気づいたら、つまらない人間だという証拠ばかり集めてしまって、自尊心が育たないどころか、生きてる意味さえ見いだせなくなる子供も出てきてしまうのです。

家庭において子供とはどのような存在か?

では、本来子供とはどういう存在なのでしょうか?

私は、親と並列にいる存在だと思います。親にこうしたい、があるように、子供もこうしたいがある。親に家族という拠り所が必要なように、子供にも安心できる場所が要る。

子供だって人間なんです。ちゃんと意思も感情も持っている。子供も尊重されるからこそ、健やかな心と体が手に入るのです。それは甘やかして育てろ、とは違います。過ちを起こせば償わせ、危険なことをしでかせば反省させ、自分で対処できるんだという自信をつけさせる。これが尊重です。大人となんら変わりません。

もっと子供に人権を

私達は親に従属させられ過ぎました。子供だからといって考える機会を取り上げられました。もっと子供は信じられていいと思います。ちゃんと自分で考えて、自分で行くべき方角を見いだせる、賢い存在です。

経験は人を強くもしますが、臆病にもします。臆病さがたたって、大人ならではの卑怯なチョイスをすることだってあります。だからこそ、子供だからとバカにしないで、彼らの考えを尋ねる機会を設けるべきです。

何十年も前にタイムスリップして、意見を聞くよう親を説得することができたなら、私はもっと強くて筋の通った人間になれた、と今となっては思います。

参考
「そんな育て方をしていない」母親からの一言で感じた生きづらさ - ライブドアニュース