分かって欲しいと思うことは辞めた方がいい

ー自分の境遇を誰かに話して気持ちが楽になりたいー
そう思う人がいるかもしれません。

でもそうした結果得るものは、孤立です。
分かって欲しいは、相手から”知らないよ” の気持ちを引き出す。そっとしといて欲しいならば、そのとおりになるでしょう。
なぜ分かって欲しい、と願ってはいけないのか、考えてみたいと思います。

ふと目にしたコラムへの違和感

子連れ再婚者に関する記事が読売オンラインに紹介されていました。

子連れ再婚者を応援する義務もありませんが、せめて「傷つけない」でほしいと思うのです。子連れ再婚家庭と交流する上での“NGワード”がありますので、少しご紹介します。「わかっていて結婚したんでしょ?」はつい言ってしまいがちな一言ですが、当事者にしたら、「覚悟はしていたものの、こんなに大変だとは思わなかった」というのが本音でしょう。悩みを打ち明けられたら、ねぎらいつつ話を聞いてあげてください。「大変だよね、頑張っていて偉いよ」と言ってもらえるだけでも救われます。

「子どもには罪はない」「連れ子を育てるのは結婚したんだから当たり前」などの言葉も、当事者を苛さいなみます。努力しても気持ちがついていかないから、自分を責めて悩んでいるのです。
子連れ再婚を当事者がそれでも「すすめない」理由 : 深読みチャンネル : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 5/5

私はこの意見に同意しかねます。子連れ再婚者は悩みを周りに相談しようとするから、「傷つく」言葉を浴びせられる。最初から相談しなければいいんです。
経験者でもない人はそんな相談に、”知らないよ。自分でした選択じゃん!” と思ってしまうでしょう。選択したのはその人なのに、選択の尻ぬぐいを他人に押しつけるなんて、理不尽です。

それだけに留まらず、さらに、労って+話も聞いて+同情までしてくれと。

みなさん、日常にそんな優しい扱い受けることってありますか?
みんな厳しい中、苦しい中で一生懸命生きてる。自分のことだけで精一杯です。特別扱いなんて、されない。だから目の前にちょっと大変そうな人がいても、精力振り絞って特別扱い…なんて出来ないです。
たぶん子連れ再婚者も、目の前に全く違う境遇の不幸な人がいたら、相手の話に耳を傾ける前に”私だって、大変なんだよ” と思うことでしょう。

自分ができないことを堂々と求めるのは、人の優しさにあぐらをかいた搾取です。

それも一度でも優しく接したら最後、その人はまた話を聞いて欲しい、と依存してきます。未経験のことに適切なアドバイスなど出来ようもありません。つまり相談はエンドレスと化すのです。
当然、どの人も自分の時間が大事。きっと何回目かから「今忙しくて」とやんわりお断りが入るでしょう。
結果として、”やっと聞いてくれる人が現れた”という安堵はことごとく砕かれ、以前より強いショックと孤立がその人を襲うことになるのです。

そもそも相手が「傷つく」言葉を言うのはなぜか? を考えるとき、それは「あなた」の問題であって「私」の問題ではないからです。
「私」が私の時間を削って、相手の愚痴を聞いて、精神的に負担を感じて、何が得られるのでしょう?
なにもありません。

仲良くする仲間ができた?
そんなことはありません。仲間ならギブ&テイク。これは搾取。全然違う。

相手は搾取なんて御免被りたいから、「子供に罪はない」「連れ子を育てるのは結婚したんだから当たり前」と言って、悩みをそっくりそのままお返ししてるんです。「悩みはあくまで当事者が解決してください。少なくとも私は無関係です。」ということです。優しい言葉を期待して相手に寄りかかろうとしたところを、断られて、勝手に傷ついてる。これは相手の問題ではなく、期待を抱くその人の問題です。

ちゃんと線引きする

緩やかな相互扶助は健全な社会を作る上で欠かせません。でも相互扶助の意味をはき違えて、「誰かに助けてもらえる社会」とすることは過大な期待です。
悩みはあくまで自分のもの。その覚悟を持った先に助けてくれる人が現れるかもしれない、そんな程度が扶助の意味です。自分から積極的に愚痴を吐いたり、相談という名の下に感情を吐露することは該当しません。

負の感情の吐露は相手に嫌悪の感情を引き起こします。それを感じさせることなく話したいなら、「私は○○で困っている。なにか解決策は知らないか?」と問題解決の形に整えて、訊くことです。これなら感情を排しているので、負担にならない。
感情を受け取るのは、どんなことがあっても自分。そのことを忘れずにいれば、知恵という形の援助を得ることは可能でしょう。また懸命に感情と向き合い頑張ってる健気な姿を見て、だれかが「辛いんだね」とか「頑張ってるよね」と声をかけてくれる可能性もある。

もし負の感情を受け取って欲しいと強く願うなら、プロのカウンセラーに聞いてもらうことです。労働対価を払うから、話を聞いてください、というのであれば、依存は発生しません。もちろん搾取もない。双方が節度あるルールの中で、独立した存在としてその問題に向き合えている。

こんなにドライであることが、関係を良好に保つコツだったりするのです。

分かって欲しいと思うのは辞めよう

大人になったら、分かってくれる人の登場は潔く諦めることです。
孤独を受け入れ、本当の意味で独立することです。

健全な人間関係は、厳しさの中にしか存在しえない。甘えや寄っかかりは、どちらかに過大な負担を強いることとなります。

なぜ私がこんなに声高にこういうことを言うかというと、ACを守りたいからです。
だいたい気の弱いACが餌食になります。聞き役をやらされます。断りたくても断れなくて、苦しみます。
そういう人を一人でもなくしたい、と思っています。

負の感情は一番弱いところに流れ込みます。気の弱い人間、力の弱い人間が犠牲になる。犠牲を払わされた側は、自己否定を強めて生きる喜びを失ってしまいます。

もしその流れ込み先が我が子だったらどうしますか?

確実に子供の未来を奪います。
無理に相手を肯定しなくても、負の感情の押しつけをやめ、自己否定感を強める機会をなくすだけでも子供の心は随分と軽くなるのです。

たとえ血が繋がっていようとも、個人の選択の結果生じたことは、個人のなかに留めるべき。
分かってくれる人を求めるのは、大きな間違いなのです。