出来る人は苦しいときも客観性を忘れない

自分が窮地に陥ったとき、我が身の上を嘆き可哀想だと思われたがる人と、自分の身の上には言及せず周りを思いやれる人がいる。
両者の違いはどこなのか? 考えてみる。

休日出勤が決まった男性の例

せっかくの休日、ゆっくり休みたいし、遊びにも行きたい。でも悲しいかな仕事が差し迫っていて十分に休みが取れない。
そんなとき頭を占めるのは”あ~あ、せっかくの休日休めないのかぁ~” という思い。

仮にこの男性に家族や、おつきあいしている人がいたとする。でも彼は休日出勤のことを嘆くだけで、相手のことは考えない。

でもこの男性が出来るオトコだったら、こうやって済ませたりしない。
かならずフォローを入れる。なぜなら彼に見えてる範囲は広いから。

見えてる範囲の違い

休日出勤を嘆いている男性は下図のように
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自分から見える世界で完結している。即ち自分の目に映る世界しか認識できない。

”仕事をやらざるを得ない、だから仕方無い、オレだって辛いんだ、周りも同じように我慢してくれ”
辛いのは自分なんだから、それを分かって!! という考え。

これがフォロー出来る男性から見ると、どんな風に見えてるのだろうか。
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左上の目のマークを見て欲しい。この目に映るのは、一点鎖線で囲まれた世界全て。

辛い自分も、相手のがっかりも両方見えてる。

同じ景色なのに、人によってこんなにも見えてる範囲が違う。この違いが人と人の距離感の差を生むこととなる。

見えてる範囲によって生まれる距離感の差

自分だけを見ている人は、周りの思いに想いが及ばない。自分の思いで手いっぱいなので、周りを思いやれないのだ。
だから口から出る言葉は、自分に関することばかり。

”僕が我慢しているから、君たちも我慢すべきだ” そうやって自分と他者を勝手に同化する。

だが他者は他者で別の感情を持っているのだから、「仕方無いだろう」と言われた瞬間、尊厳を傷つけられたと感じる。

自分都合で他者の尊厳を踏みにじる人は、信じてもらえない。当然互いの距離が開く。


一方で全体を見渡せる人は、いつでも自分はこう感じてる、は、他者はこう感じてる、と同じくらいのウェイトで思える。自分だからと妙な肩入れはしない。
口から出る言葉は、どちらに加担するでもなく、平等。

”僕が我慢してることと、君たちが迷惑を被ることは別だ” そうやって自分と他者を区別する。

だから区別された他者は「悪い、君たちの休日まで影響を及ぼしてしまって」という言葉を受けた瞬間、私の尊厳は守られたと感じる。

どんな都合があろうとも他者の尊厳を守れる人は、信頼される。当然互いの距離は縮まることとなろう。

出来る人の周りは人がいっぱい

こうやって、見えてる範囲ひとつで、人との距離が開いたり狭まったりする。それでもって、出来る人の周りの人は、出来る人を心から応援しているので、力が必要なときに手を貸してくれる。

一人で出来ることはたいしたことなくても、力を合わせれば大きな事が出来る。その事実ができる人の成果を益々大きくしていく。

力を合わせてなにかやることは、楽しいだけでなく充実感や仲間意識を生む。そのことがさらに多くの人を惹き寄せる。
結局出来る人の周りはいつも賑やかでたくさんの人がいることになる。

苦しいときこそ真価が問われる

平時に相手のことを思いやるのは、そこそこの凡人でも出来る。でも緊急時や苦しい局面で相手も自分も同時に目の中に入れることの出来る人はなかなかいない。

だが、それこそが人間の成熟差なのだ。
赤ちゃんや小学生が自分のことばかり主張するのは当然。でも30歳過ぎた人が、「だって○○なんだから」と自己都合を並べたり「オレだって」と自分養護をするのは、あまりに幼い。

自分を守ることは、相手を見ないことではない。自分も相手も守ることが出来てこそ、成熟した大人だ。

出来る人は困難の渦中においても、場の利益を優先できる。そのことが、その人をより出来る人へと押しあげる。苦しいときこそ、己が何を見ているのかの真価が問われるのである。