昨日からLINEなるものを始めました。といっても、ド初心者。インストールするだけでひやひやです。インストール直後、知り合いから「元気~?」と連絡が来て、心臓が飛び出すかと思いました。まだ、ユーザー登録終わっただけです。
そこから何件かぴろーん、ぴろーん、と音が鳴ってメッセージが入り、さっそく嫌気が差してきました。放っておいて欲しい…。そして気づいたのです。これはもしかして、底なし連絡ツールではないかと。
メールならば要件を一つにまとめて相手に送ったら終わり。LINEは話しかけて、話題を途中まで言ったら、相手の応答を待って、また話を始める。会話です。どこに着地点があるか見えない。
目の前に相手がいるのであれば、もう止めたがってるんだな、という察しもつくのでしょうが、いかんせん文字オンリー。相手の思惑など見えはしません。となると、話を切るのも悪いかなとか、へんな遠慮が出てしまって、気が弱い人ほど相手にペースを任せてしまう。
ここでもし、相手が子持ちだったら…、どうなるでしょう。
子供自慢をしたくて仕方ない親たち
ご想像どおり、子供の写真大量送信の刑を食らいます。
たいして見たくもない子供の写真を、角度を変え、照明を変え、何個も送りつけられる。思わずチベスナ顔になってしまいますよね。でも、こっちのチーンという心の音に送信者が気づくことはありません。
なぜなら、本気でこの子をかわいいと思うから。そしてあなたもかわいいと思うに違いない、というか、かわいいと思ってくれ!だからです。子育てを担う母親の心は孤独です。だれにも認められることがない。一方で、ちょっとでも間違えると集中砲火を浴びる。ただひたすら緊張と献身の日々。誰かに労って欲しくてしょうがない。
そこで子供の写真を送って、「かわいいね!」をゲットして、献身の成果を認めてもらおうとする。つまりひと言でいうと、子供の大量写真送付は、孤独なお母さんの承認欲求そのもの。こっちをうまく利用して、心理的な安定を図ろうと画策しているんですね。
相手の中毒に手を貸してはいけない
こういった裏に目的を抱えた行動というのは、ちょっとやそっとで止まるものではありません。気を回して、「あら、かわいいわね」なんて言ってあげたが最後、そうでしょう、そうでしょう、もっと賛辞を送って頂戴と、行動がエスカレート。中毒へと化していきます。
送ってくる頻度は個々の性質に依りますが、連絡一回につき写真一枚を添付することを忘れないでしょう。
おぼれる者はわらをも掴む。「かわいいね!」といってくれる相手には粗悪なショットでも送って承認欲求を満たす。だから、送ってくる写真の品質は大したことないんです。
では、わらになってあげることは、相手のためなのでしょうか。さきほど中毒といったように、相手の欲求を満たしてあげても、結局底なしです。欲求が欲求をよんで、しまいに思い通りに振る舞わないこっちに敵意を向けることさえある。これでは相手のためにも自分のためにもなりません。
優しく接するヒマがあったら、できるだけ早急に対処することをオススメします。
アンカーを使って危機を避ける
けれども、正面切って「やめて!」というとまるで相手の子供の存在を否定したような格好になります。それはさすがに心が痛む。なので、相手を尊重するアンカーを打って自制を促しつつ、脅して迫るのです。
たとえば、「○○ちゃんは頭いいから、こういう写真がどう思われるか分かってるよね。だいたいは疎まれてる。子育てを誰かに褒めて欲しい気持ちは分からなくもない。毎日大変だもの。でもね、その大変さをねぎらうのは、私じゃなくて家族だよ。送るなら、夫や親族にしてみたら。私は子供には興味がないから、写真が続くようなら、あなたと距離を置かざるを得ない。それはとても残念。選択はあなたに任せる。今後子供のことは一切出さないのと、子供のことを出して疎遠になる。どっちにする?」。
相手に選ばせる体でいると、こちらは悪者にならずに済むので、平和的解決を望めます。
塩梅を見定める
とても不思議な現象ですけれど、不満の元となるとこに不満は戻らず、不満とは関係ないところにぶん投げられる、が世の常です。家族仲の悪い人が会社でパワハラを働いたり、イジメに手を出したりする。
このケースも、元はと言えば子育てに適度な労いを与えない環境、すなわち家族が問題なのであって、知人はまったくの無関係。なのに、労いを求めています。だから相手の行動に困ったときは、「そもそも論」で考えることです。自分が問題の外にいるときは、早々と外野宣言して、問題から外れましょう。
人間関係は、繋がりの強弱をベースに相互扶助の関係を呈します。家族や血縁のように強い繋がりであれば、強い扶助の関係を、知人のような弱い繋がりであれば、弱い扶助を求めるのが妥当です。しかし、「和を以て尊しとなす」の精神を持つ我々は、弱い繋がりにも強い扶助を持たねば人でなし、と思い込んでいる節があります。そういうときこそ、問題を整理し、重すぎず軽すぎないちょうどいい塩梅で解決を図ることです。
私がかわいいって思ってもあなたがそう思うとは限らない。それがちょどいい塩梅。人のセンスは口出ししない代わりに、強要もしないからこそ、個々の独立は保障される。
センスの強要に対して逃げ回るのではなく、堂々と立ち向かえばいい。刃など向けなくても、いい塩梅に落とす方法はいくらでもあるのです。