律義な人は「自信がない」のかも? 

相手を信用できるかどうか判断するのに、

  • 時間を守ること
  • 約束を守ること

を目安とする。

だが、そういう人だからといって、即信用できるわけではない。

律義だけど信用できない、という人の存在も知って、本当に信用に足る相手かを見極めよう。

律義が首を絞めるとき

時間や約束を守る人は、一緒に行動しやすいし、物事をスムースに運べる。
きちんとしていることは、それだけで安心を生む。

だから人は律義な人を好む。


わかる。安心はなによりも大切だ。相手を疑ってかかっては、進むものもすすまない。

だが、その律義があだとなることもある。

それは決めたことにこだわり過ぎて、臨機応変さを失うとき。

例えば10時に待ち合わせという約束でいたが、電車が事故で止まって間に合わないとき。
10時を守れないということにパニックになって、次点の策を思いつかない。
ワーワー騒ぐものだから、ただでさえ周りはイライラしてるのに、喚き声が加わってストレスMAX。

守ることこそ、正義!という信念が邪魔して、思考停止に陥っている。
こういう人は平時には役に立っても、緊急時には足手まとい。トータルでみたら信用できない。


では、律義さは不要だったのか?

「誰のため」の律義さ?

本来安心をもたらすための律義さが、足手まといの原因になってるには、なにか理由があるのだろうか?

そこで人が律義である理由を考えてみる。

人が律義という概念に最初にふれるのは、家庭や学校といった教育の場。
「時間を守りましょうね」「約束をやぶってはなりません」
理由もわからず、強制的にインプットされる。

少し学年が上がれば、律義であることはお互いのため、という概念が生まれる。
一緒に行動するためには、互いの信用が必要だ。その信用は普段の行いから生まれる。だから律義でありましょう、と。

もう少し年を重ねると、律義であることは「自らの身勝手さで相手の時間を奪ったり、相手との予定を変更させないため」という考えに昇華する。ここで相手への尊重という概念が生まれる。

もしこの通りに律義を身に着けたのであれば、臨機応変さは保たれる。

ところが、最終段階のもう少し年を重ねたときに至る考えがマズいと、問題が起こる。
律義であることは「相手の攻撃(時間にだらしないからこうなるんだ!等)から身を守るため」という考えに変わると、パニックは起きる。守れなかったらどうしようという恐怖が、臨機応変さを失わせ、自己保身へと走らせる。

相手のための律義が自分のための律義に変わってしまうと、本来の意味が失われる。

ここを見て判断しよう

なんでもそうだが、目的を見失ってやることだけに集中すると、そうでなくてはならない、という潔癖さに取りつかれる。その潔癖さは、もはや誰かのためではなく、完全なる自己満足。でもその満足でさえも、やらなかったら悪いことが起こるという不安を生み出している。

いいと言われていることを盲信して、それにこだわるあまり潔癖さに取りつかれ、そのことが不安を生み出し、不安が(相手が攻撃してくるといった)妄想をかき立て、パニックを引き起こして、臨機応変さを失わせてる、としたら、いいと言われてることを丸呑みにするのは、自分にとって本当にいいことなんだろうか?

世間の判断に任せて物事の正しさを測ろうとするのは、自分の感じた事・考えたことを信じられてないから。要するに、自分の考えに自信を持ててないから。

「自信のなさ」からくるきっちりかっちりした律義さは、いずれ信用の低下を招く。

律義であるという事実を以て相手を信用することはできない。本当に信用できるかどうかは、律義の出所を探ってからだ。そこを押さえてこそ正しいパートナー選びができる。