アダルトチルドレンの心の中にうごめく忍耐力と攻撃性

アダルトチルドレン(AC)は「おとなしくて遠慮がち」な一方、執拗で攻撃的なように感じる。まるで昭和の忍耐妻みたいだ。だからなのか、精神の安定力に欠ける。みなさんジェットコースターみたいに激しい。

そしてそのことを悩んでおられる方が多い。もっと安定した暮らしをしたいのだそうな。

ならばなにゆえ、そのような不安定は性格が形成されたのか。原因を探って、不満解消へとつなげていきたい。

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忍耐力を持つのはなにゆえ?

忍耐力については、ACのほとんどに自覚が有り、自分ばかりがなぜ我慢せねばならぬ、と思っている。かといって、正面切って「私だけ我慢なんてしたくない!」とも言えない。そんな自分のふがいなさに落胆している。

けれども、これが機能不全家族に産まれ、生き抜いてきた者の生存戦略である。親に逆らわぬうちは、ご飯を抜かれることも、体罰を食らうことも、罵倒をされることもない。従順さと引き替えに己を殺したとしても、それは力を持たぬ幼き存在としては致し方なかったのだ。

弁が立つようになるのは、多く議論した経験と、自分を信じる力が培われた後。なにも持たない無力なままの子供には、親に逆らうことなどできっこない。

攻撃性を持つのはなにゆえ?

では、攻撃性についてはどうか。ACの攻撃の仕方は独特で、一つは愛をくれそうと思った人から愛をもらえなかったとき執拗に攻撃する方法で、もう一つは相手の些細なミスをやたらネチネチと攻撃する方法。陣地取りを繰り広げる敵 vs 味方といった明瞭な構造とは一線を画する。

これはACの攻撃はあくまで自己肯定を目的とした手段だから。不足する愛を充填したい、相手の間違いを指摘して相手を下げ相対的に私が持ち上げられたい、から攻撃に出ている。

それゆえなんとなく回りくどく、攻撃したいんじゃなくて、泣いてる自分をあやして欲しいのかな?という甘えが見え隠れする。本当に欲しい言葉は、謝罪ではなく、「辛かったね」だったり「大丈夫だから」だったりな気がする。

ACの行動が意味するもの

つまりACはいまだに心が子供で、親の愛を希求し、親の愛を試そうとしている。ひと言でいうと、どの行動も「私を愛して欲しい」へと収束する。

過去に望んでも手に入らなかった愛されるという体験を、愛する義務のない他者に委ねるのは、相手の荷が重すぎる。それをも気づけないのは、愛を希求する想いが強く、相手を慮る余裕がないからだ。

大人になれば、愛は自分の中から作り出すものであって、与えられるものではない。どうにかこうにか己を鍛え上げ、愛を自家発電している者にとっては、ACの態度は無責任極まりなく見える。

たとえ生まれた場所が機能不全家族の中だったとしても、普通の家庭の中に生まれた人との格差を平滑化される世界など、どこにも存在しない。すべてはこの惑星に産み落とされた自分がなんとかするしかないのだ。だから今できることは、自分の中の忍耐力や攻撃性を客観的に見つめ、希求する想いを改めて理解すること。

そうやってケアに一歩手を伸ばせれば、今はジェットコースターみたいな性格であっても、そのうち穏やかで笑顔の似合う自分になれる。自分の中の忍耐性と攻撃性から目を逸らしてはいけない。それは自分の今の状態が黄色信号ですよ、という内なるアラートなのだから。

自分の心の声に耳を傾けよう。