本を読んで親にすり込まれた毒を抜く

GWウィーク中にこんな本を読みました。

逃げたい娘 諦めない母

逃げたい娘 諦めない母

タイトルから分かるように、母と娘の関係性を書いた本です。
今日はこの本を参考に、母親にすり込まれた毒の抜き方を考えてみます。

本の概要

この本では、架空の人物 君島瑠衣(33歳)、一人暮らし、広告代理店勤務、を主人公として瑠衣の母と瑠衣の関係を物語り調で描いています。

瑠衣は優秀な社員で、大きなコンペで勝ちます。会社や仕事関係の人からは高く評価される一方、母親からモノ扱い。時に自慢のネタに、時に暇つぶしの相手に、時に愚痴の聞き役にさせられます。

自分の言うことを聞く娘こそがパーフェクトと信じて止まない母親は、娘の仕事人としてのキャリアを疎みます。自分の理解できる道を歩ませようと手を変え品を変え娘に(言葉で)迫るのです。

そんな母を重く感じ、連絡が来る度、瑠衣の内臓はきゅーと締め上げられます。母の前では極力自分のことを話さず、もちろん成功も口にしません。母と会う2時間に神経を研ぎ澄まし、なるべく苦痛に感じるネタを避けて無難にやり過ごそうとします。

でも、ポジティブな考えを持つ同僚の智治、広告を出す企業側で良き刺激をくれるユリ、近所に住んでいて瑠衣と同じ窮屈な親に苦しんでいる沙紀との出会いや再会を通して、「いつまでの ”いい子” な自分でいいの?」という疑念が生まれ、考えが変わっていきます。

そして思い切って母に今までと違う態度を取ると…、という展開です。

「あるある」がいっぱい

親からの価値観の押しつけ、良い子でいなくちゃという偽りの自分作り、一人暮らしして初めて気づく親子の関係の窮屈さ、際限なき親の野望。
こういうアダルトチルドレンあるあるが、ここかしこに見られます。

その中でもとくに、母親の言い分がコロコロと変わることには、「あるある」だけじゃなく「ナント理不尽な!」という怒りさえわいてきます。

母の嘆きは不思議だ。高校生のとき、私が男子と一緒に学校からの帰り道を歩いていただけで眉をひそめていた母だったのに、25歳を過ぎたら一転、早く結婚しろとせっついてくるなんて。

物語に添えられた信田さよ子さんのコラム

年頃の娘に対する母の言動は矛盾だらけといってもいいでしょう。多くは10代の娘の恋愛禁止を言い渡し、20代の娘の彼に難癖をつけますが、30代の娘が結婚せず子どももいないのは恥ずかしいと考えます。思春期には、性の匂いのしない ”いい子” として育てるものの、結婚適齢期が近づくと商品のように娘を売りだそうとし、結婚しない娘に対して人生を否定するような言葉をかける。その言動の論理に一貫性は見られません。

はまさに、母親の言動を分析したときの、矛盾も矛盾、大矛盾を突いてると言えましょう。

こんな風に「言うことがコロコロ変わる人間」のなにを信頼できるのでしょうか。自分なりの考えを持った人は、こんな風に都合良く意見を変えるのではなく、あくまでも時代にあわせて考えを改訂していくのです。芯はブレず、対処法だけが変わっていく。これが主張の本来の在り方です。

親の主張なんて聞かなくていい

言うことがコロコロと変わり、周りに流された主張をする親を子どもは尊敬しません。したくても、するポイントがないんです。
働いてくれてるから、ご飯を作ってくれてるから、というのは親としての役割を果たしていることへの感謝であり、人として素晴らしいと尊敬するのとは別物。

学校教育では未だに親を尊敬するよう諭しますが、それに見合うだけの考えを持てない大人もいるのです。そこを無理に尊敬を強いると子どもの心がつぶれてしまいます。

これは大人でも同じ。育ててくれたから、親だから、「敬わなくてはならない、大切にしなければならない」と自らを縛ると、息が詰まってしまいます。
こういう本をきっかけに、親はスーパーマンじゃない、親のいってることはメチャクチャだ、と感じるのも、また自分から毒を抜く一つの方法ではないでしょうか。