評価と承認

私は今まで、”(自分が思う)相手が喜ぶことは声にだしてええじゃろ”派だった。
だから美人さんにあったら「べっぴんさんですなー」
学歴の高い人にあったら「頭ええんですなー」
と躊躇なく口にしていた。

でも実際美人さんは美人評価に飽き飽きしていて、”見てくれ以外はダメだってこと?”と感じていたりするもんです。
せっかく褒めたのに、悪意に取られる…

釈然としません。何が間違いなのでしょう?

美人と不美人の判断は、実は主観によって行われています。
自分の判断が美人という結果だとしても、それは主観に過ぎない。
受け取り手はまったく違う評価を自分に下している可能性もある。
そんなとき、(自分では見た目だけ麗しくて心は汚いと思っている)不美人 vs (見た目が麗しければいいじゃないか)美人という対決の構図が出来上がっているわけです。

意見が真っ向から違うのですから、褒めているのに敵対しているという関係です。
さらに相手は”褒めているのだから喜ぶのが筋だ”という暗黙知までバックに付けている。
美人さんの形成は圧倒的に不利です。かくして「ありがとう…」と言わざるを得ないハメになる。

本当に人が喜んで褒めを受け取るのは、自分の判断が相手のそれと拮抗しないときです。
しかし<どのような価値基準でいるのか> が不明な他者を評価することは敷居が高い、ちゅーか想像がつかないわけです。かといって無言というのも、芸がない。

そこで心の眼をスイッチ!
判断を辞めて、承認に変えるのです。
相手がそのまんまいることを認めるのです。

美人さんやったら「空気が凛としますなぁ」。
頭ええ人やったら「頼もしいお方ですなー」。

上手く表現できないけど、持っている”もの”から眼を外して、”人”そのものに着目すると同じ褒めるでもニュアンスが違ってくるんです。
「褒めたつもりが押しつけに」ならぬよう、言葉を吟味していきたい。
だとしたら、評価ではなく承認とは何なのか?もっと突き詰めて考察していかねばなりません。

…もっともらしいこと書いちょりますが、私もまだ悩み中。難しいテーマです。