○○死ね!という言葉の裏に隠された本音

保育園に落ちた母親が「日本死ね!」と叫んだのを機に、○○死ね!という言葉が多用されるようになりました。
昨日は東京都議選に出馬した勝谷誠彦氏が「いい勉強になりました、死ね!」と言葉にしたようです。

ではみんなが使いたくなる?○○死ね!の裏にはどんな本音が隠されているのでしょうか?

死ね!を言葉にする人達

私たちは思い通りにいかないとき、外のせいにしたくなります。
天気のせい、あの人のせい、運命のせい、交通機関のせい。

外のせいにしている内は楽ですね。自分に問いたださなくていい。そうやって自分の心を守って、心の安定を保っているのです。
つまりこれは心にとって必要なことです。
一度は「私のせいじゃない!」って思ったっていいと思います。
思うだけならば。

ただ口に出して誰かに知らせるのはどうでしょう?
間違いなく迷惑です。

それでも出す。思うだけでは消化できないからです。
外に出してスッキリして、ついでに同志を見つけたい。同情されたいのです。
一人でワーワー言ってるより、二人、三人と仲間が見つかれば、感情にお墨付きがもらえたような気がします。

人はどこまでも心を楽をしたい生き物なんですね。

死ね!のホントに意味することとは?

では、感情をまんま出したであろう「死ね!」という言葉。どういう意味なのでしょうか。
日本は死ねないし、いい勉強になりました、死ね、では誰が死ぬのか分かりません。意味自体はなさそう。

その代わり「クソっ!」という怒りを表しているのでしょう。

でも「クソっ!」だと弱い。もっと「クソォオオオオオオオー!!!」という感じが欲しい。なのに適切な言葉が見つからない。そこへ来ての「日本死ね!」。
怒りが頂点に達したことを表す言葉としてピタッと当てはまったことが、多用されるに至った原因でしょう。

しかしそれは心の底に抱いている感情ではありません。怒りは二次感情と言われており、奥に一次感情(本音)が潜んでいます。その一次感情の正体は「不安」です。

ですから、「日本死ね!」の場合、本音は「子供を保育園に預けられない。働きに出られないと生活できない、どうしよう」。
勝谷氏の場合「(選挙戦は人生の)いい勉強になった。でも僕は都民から選ばれなかった。そんなことが白日の下にさらされた。これからどうすればいい?」。

行くべき場所を見いだせず、不安で押しつぶされそうな自分が唯一挙げられる短絡的な怒りが「死ね!」だったのでしょう。

「すべては自分のせい」という覚悟がない

では、不安になったら「死ね!」と訴えるしかないのでしょうか。
ここでヒントとなる考えをご紹介します。

田坂広志さんが「世界最大のシンクタンクで学んだ「企画の極意」」というコラムの中で、ボツになった企画に関して

それは、「企画は良かったのに、上司の意識が遅れていた」や、「企画は優れていたが、顧客が理解できなかった」と、どれほど批判してみても、やはり、その担当者の「企画力のなさ」なのである。

なぜならプロフェッショナルの世界において、「企画力」とは、「企画を立案する力」のことではなく、「企画を実現する力」のことだからである。

正確に言えば、「企画力」とは、企画を立案し、提案することを通じて、人間と組織を動かし、それによって、企画を実行し、実現する力のことだからである。

だから、たしかに、あのディレクターが言っていたように、採用されなかった企画書は「紙くず」にすぎない。

そうであるならば、「企画力」とは、何か。

それは、貴重な時間を使い、考えを尽くし、思いを込めて書いた企画書を、決して「紙くず」にしないための戦い。「企画力」とは、その戦いを戦い抜くための力のことである。

我々が、もし一人のプロフェッショナルとして、本当に「企画力」というものを磨いていきたいと思うのならば、その覚悟を持たなければならない。

と述べています。
思い通りにならない時こそ自分の至らなさに光を当てる。不安に飲まれることなく、最後まで覚悟を持って戦い抜く。

その覚悟は周りを追従に向かわせます。追従してくれる人が多ければ、大きな渦となって世の中を動かす力となることでしょう。

どうしようもなくても言葉は端折ってはいけない

「死ね!」という言葉の奥に、多くの言葉の屍が転がっています。
本来であれば屍を一つ一つ棺に入れて供養しなくてはならないところ、出来ないから、面倒だからという理由で、すっ飛ばして無視してしまっている。

人はいつからそんなに粗暴になったのでしょう。

先日お亡くなりになった小林麻央さんは、不安に押しつぶされそうな自分の心を必死で言葉に換えようとされていました。今の海老蔵さんもそうですね。
彼らは、けして短絡的な世界に逃げることなく、真正面から不安に向き合っています。
その姿が人々の心を打ちます。

私たちはそれを見習わなければならないのではないでしょうか。
目を反らすことなく怒りの陰に隠れた不安を探り当てるくらいの努力はしていきたいものです。