親が倒れたら、子世帯は「無理してでも救おう」としてはならない。
という厳しい考えが示されています。
つまり親世帯が病気になったとしても、子供の学資保険を解約して親に医療費援助してはいけない、ということ。
目の前の問題を解決するのに手近なものを利用すれば、かならずそのツケは回ってくる。じいちゃん・ばあちゃんの健康と引き換えに子供の未来を潰してはなりません。
出来る事とできない事はわきまえないといけないと言われてる気がしました。
対処療法の積み重ねが地獄を生む
親が金銭的に大変だからといって、ひとたび医療費を援助したら、また期待されます。
一度目は助けたけど二度目は断る。そんなこと、できるものでしょうか? 普通はできません。とすれば、終わりなき支払いに巻き込まれることになります。
援助をしたがために子世帯が財産を切り崩していろいろと諦めなければならないとしたらどうでしょう。親世帯を支えるために自分たちの老後の資金を使い果たしたら、孫世帯の未来はどうなるでしょう。
たった一つのほころびが、何世代にもわたってじわじわと浸透して、最後、家族崩壊もしくは破産、を引き起こす。そうはならないでしょうか?
そこまでしてする援助は果たして正しいのでしょうか。
子は親の生活を丸抱えする必要はない
民法で生活を丸抱えしなければならない、と定められているのは「未成熟の子に対する親・夫婦間」のみ。
親に対しては「無理のない範囲で支えましょう」とされています。
もし親世帯が破産に追い込まれても、子は自分の生活を切り崩す必要はありません。
それが正しく理解されていないが故に、無理してでも親を支えようとして、共倒れとなる人が続出しています。
区切らないと依存を生む
困ったときに誰かが助けてくれたなら、人は学習します「あの人をを頼ればOK」と。
そして考えるのは辞めます。
だって、楽ですもの。
そうやって頼ること一本で乗り越えようとします。
そのとき当人を支配しているのは、相手への依存。
いかに頼り、いかに同情心を煽るか。
当人がこんな気持ちに囚われてしまったら、もはや平和な解決方法は望めません。
途中で援助を断ち切れば「鬼」と言われ、援助をし続ければこちらが破綻する。
完全に手遅れです。
区切ることが相手への敬意
相手が大変なのを見ているのがつらいから、未来やってくるであろう不都合には目をつむって、目の前の人を救ってやる。
それは心理的に楽です。
「ありがとう」と言われるし、苦しむ相手をみなくていい、地に落ちる惨めな相手に向き合わなくていい。
でもそういう厳しさから目を反らしてしまったら、当人が現実を知り、向き合う機会を奪うことになります。
幸せとは、心がひたすら楽するあること、ではありません。
いつでも「自分」を持ち続けていられることです。
その「自分」は、一人一人にあって、それさえあれば、納得を引き寄せられる。
なのに下手に助けてしまうと、納得を失うばかりか底なしの依存へと突き落としてしまいます。
助け合いはあくまでも相手の自立を妨げない範囲で行われるべきなのです。
相手の自立を守ることが、相手に払う敬意です。
相手の自立を破って援助し続けるのは、相手を一人前の人間として扱っていない侮蔑行為です。