かわいいビジュアルのスゥイーツを前ににっこり微笑むワタシ
ライトに照らされたナイトプールをバックに水着姿のワタシ
絶景を前に決めポーズで写るワタシ
SNSにこんな写真が載せられている。
彼らが写真を載せる目的は、自慢したいから。
自己満足のためにネットを使い「私の(作った)日常」を拡散する。
そうやって得た「いいね」にひとときの安らぎ(小さな自己肯定感)を感じ、またそれを求めて明日を迎える。
でもその「いいね」は本当に「いい」という意味なんだろうか。
本当は「(どうでも)いいね」という意味じゃないか?
本心は「何も感じない」
「いい」
「何も感じない」
「悪い」
仮に自撮り写真をこの3つに分けるとする。
よほどの不快でもない限り「悪い」は選択しないだろう。
だとしたら、2つに分類されることになる。
写真というのは、「見せる」ためのものなので、それなりに「見せる」ものを意識して撮る。
見せられた方がその意識を感じ取った上で「何も感じない」と評価するのは、なかなか大変。
少なくとも知り合いにそのような写真を見せられたなら、社交術として「いいね」をポチるだろう。
ということは実質、1つに集約される。
だが本心は別だ。
「まぁ、自慢したいのは分かるけどね。それって一体私になんの意味があるんだろう?」と思っている。
つまり「意味不明のため、何も感じない。」
SNSの写真がもたらす意味
SNSの写真が人々に意味(恩恵)をもたらせる、とすれば次の2通りがあると思う。
まずは美しさ。
写された対象の美しさ、構図のすばらしさ、に人は心を動かされる。
次に自分も体験できる可能性。
あまりお金も労力もかからず、写っている楽しそうなことを体験できるのなら、UPされてる写真は予備情報としての意味を持つ。
「自撮り」の場合、【美しさ】は写っている人の表情や造形美がどうか、ということになる。
自分で自然な表情を切り取ることは出来ないし、被写体が美男美女であることは珍しい。そのため美しさはない。
【体験できる可能性】に関しては、自慢をベースとしているため、説明が足りていないのがほとんど。ということでこちらもなさそう。
従って、「自撮り」は見る人に「意味」をもたらしてはくれない。
(ただ一緒にいた人と懐かしがることなら出来る)
意味がないのに続ける無意味
「意味」ない写真を前に、つきあいでしかたなく「いいね」を押してる自分を遠くから見つめたとしよう。
素直に生きてると言えるだろうか?
じゃあ今度は、そんなこともつゆ知らず「いいね」をもらえたと喜んでいる自分を天井から眺めたとしよう。
本当に充実していると言えるだろうか?
心からの「いい」が不在のまま、「いいね」に踊らされてる滑稽さにどれだけの人が気づいているんだろうか。
人からみてどういう意味があるかを見据える
自分の嬉しいと思うことを、他人がどう捉えるかを想像できない人は多い。
だからこんな的外れの批判をしたりする。
自分のことを話さない人を指して「あの人お高くとまってるのよ~。私たちと一緒にいたとき、夏休みどこにいったか話をしていたら、何にも言わないの。でも調べてみたら海外旅行にいってたっていうじゃないの。なんで言わないのかしら、感じ悪い。」と。
話さない人は話すことの「意味のなさ」を知ってるから話をしなかった。
そういう引いた考えがあることにさえ気づかず、自分らと同じ程度にならないことを「感じ悪い」と切って捨ててる人、けっこういるんじゃないだろうか。
あったことを無限に外にまき散らすのは、情報の垂れ流し。文字による公害。はっきり言って迷惑。
「ブロックすればいい」というが、その前に書き手が意味のあることを書き込む意識を持つ方が先じゃないだろうか。
この公害のせいでかなりの人がSNSに疲れている。
それは読む側の「意味」を慮ることなく、自慢を繰り返すからだ。
誰しも人の自慢話はキツイ。そして自慢合戦もキツイ。
自分がキツイと思うことを人にし続けていいんだろうか。