お節介を焼きたがるのは親切心ではなく自己肯定欲

私の中にうっすらとある「お節介」したい気持ち。

・お願いされてもいないのに、妙齢の独身者に誰かを紹介したくなる
・相手が好きかどうか分からないのに、美味しい物を紹介したくなる

最初は、そういうの、「人のため」だと思ってた。
けど、よく考えたら、「自分のため」なんだよね。

お節介して得たいもの

誰かを紹介したくなるのは、ワ タ シが二人をくっつけた、という実績が欲しいから +「ありがとう」と喜ばれたいから。
→不全感のある自分を「役に立つ自分」に変えたい。

美味しい物を紹介したくなるのは、ワ タ シは情報通であると認識されたいから +「美味しかったよ」と自分の味覚を保証されたいから。
→実力のない自分を「なんでも知ってるパーフェクトな自分」に近づけたい。

結局、自分を否定する気持ちを払拭するために、お節介を焼きたいんです。

お節介焼きたがりのエンドレスな欲

本当に相手を思えるほど成熟した大人なら、見守るとか必要になったら手を貸すといった控えめな行動をとる。
大切なのは、主となる当人であり、自分は添え物。
だから、しゃしゃり出たり、押しつけたり、といったことはしない。

反対に出来ていない人ほど、人を自分のオモチャにする。
自分が満足するために、好き勝手オモチャを動かして、自己肯定補償ゲームをする。

ゲームの駒にさせられた側はたまったもんじゃない。
即座に逃げてしまうだろう。

それでもめげずに、次なるターゲットを探す。

お節介焼きはたいがい顔がしわしわ

お節介焼きは必ずしもオバチャンというわけではないが、なんとなく顔に強欲の皺が刻み込まれている気がする。

その人の笑いは、笑顔というよりニタり顔。よけいな皮がくっついてる。

結局自分の利益ばかりを優先する人って、顔が醜くなるんだ。
そして自分もそうだったのだと思う。

人の幸せを願えるほど急に大人にはなれない。
だったら、せめて「お節介を焼く」ことくらいは自重したいものだ。