カウンセラーは問いを逸らしてはいけない

私が患者の時の経験。

私「先生、人を信じるってどうやるんですか?」
先生「キミがまずどう思ってるか言ってごらん」
私「…」

こんな風に問うても問うても、先生は答えてはくれなかった。
傾聴型カウンセリングでは、正しい対応だったのかもしれないが、「信じるって何?」が分からない私にとって、それが満足だったのか、というとはなはだ疑問だ。

人生にはいくつもの簡単には解けない疑問がある
「なぜ生きてるのか?」
「人は殺してはいけないのか?」
「他人は裏切るものなのか?」
「どうやって信じるべき人とそうでない人を見分けるのか?」

その問いにカウンセラーがどう向き合ってくれれば、満足いく結果につながるんだろう?

瞬時的問いにマジで向き合う

カウンセリングは玉手箱のようだ。やってみるまで何が出てくるかは分からない。
だから私はカウンセラーになると決めたときから、様々な疑問を自らに問いかけ、自らの頭で考えることをサボってはいけない、そう自分に言い聞かせてきた。

どんな問いにもクライアントの切実な想いが宿っている。暗い暗い夜道を外灯もなく歩くのは、誰だって心細い。せめて懐中電灯をもってそうな先生と一緒なら、と思っておずおずとその問いを私の前に出す。

そこに至るまでクライアントが駆け抜けてきた苦悩を、カウンセラーは軽くあしらっていいんだろうか。まんまクライアントに考えろと突き返していいんだろうか。せめてクライアントが期待している懐中電灯くらいは灯してあげてもいいんじゃないだろうか。

そう考えているので、私はカウンセリング中、問いに対して結構話をする。必要があれば質問を投げる。この話す・投げるの塩梅は難しくて、問いが深ければ深いほど、私の話す量が増えていき、「果たしてこれはカウンセリングか?」とやや疑問に思うところはあるが、でも、解釈はあくまでクライアント本人が行うものであるから、分からないなら分からない、とはっきり言ってもらい、都度どういうアプローチが響くか、考える。

つまりカウンセリング中は、カウンセラーは脳に汗かくまくりなのである。
私の雑感では格闘技をしているのに近い。

カウンセラーが誠実であるからこそクライアントは何かを掴める

カウンセラーがガチなら、クライアントもそのガチに引っ張られて、思わずリングに入ってきてしまう。どこかでクライアント自身の経験とリンクするところがあれば、思い出を語り、感情を吐き出し、経験の解釈を変えていく。

その解釈が変わった瞬間、これまで見えていた世界と違う世界が開け、絶望しかなかった世界に光が差し込む。どんな弱々しい光であれ、差し込んだその一筋は、クライアントにとってやっと開けた疑問への道筋となる。

だからクライアントから投げられた問いは、どんなに難しかろうとも、けして目を逸らすことなく、向き合わなければならない。カウンセラー自身、考えなくてはならない。もし考えたことのないテーマなら、そのとき一緒になって、うんうん唸ってみよう。

苦しいときこそ一緒に走る。これが伴走者としてのカウンセラーの役目だ、と私個人は強く思っている。