カウンセリングにお金を払う価値はあるのか?

「うつは心の風邪です」
そんなフレーズが流行り始めた頃、私は人生で初めてお金のかかるカウンセリングの扉に手を掛けた。

そのときは症状が重く、いち早くラクになりたくて、なんにでも手を出した。マッサージ、気功、バッチフラワーレメディー…。その中の一つがカウンセリングだった。

カウンセリングに求めることはただ一つ。早く病気を治したい。いつ出るとも分からぬ症状に不自由を強いられる日々から抜け出したかった。

知り合いがよさそうだ、という病院を訪れ、優しそうな先生に思うがままを伝えた。言って、言って、言って、どうしたらいいか教えて欲しかったのだ。

ところが担当のS先生は、話を聞くだけでなにも答えてはくれなかった。2年経ち、症状も落ち着いた頃、効果に疑念を持った私は、カウンセリングをやめることにした。

はて、2年の間に私が獲得したものはナンダッタのだろう?

効果の見えぬカウンセリング

通院をやめてしばらくして、追い詰められた私は、また新たに別の先生にかかることにした。その先生は、なかなかいいツッコミをくれるので、思いの丈を吐き出しやすかった。

ところが前回と同じくいつまで経っても成長しない。いい加減自分に嫌気がさし、そこから遠ざかることにした。

この繰り返しに何度挑んできたことだろう。その度思うことは、聞かれるだけでは成長しない、ということ。

聞かれる+αが必要だと思った。

カウンセリングって何をやってるのか?

この+αがなんなのか?
そこにこそ、カウンセリングの付加価値がある。

その付加価値とは、何を言っても否定されない安心感? 言ったことを外に漏らさない安全性? 同じ事を繰り返し言っても聞いてくれる気楽さ?

確かにそれもある。緊張から解き放たれて話せる場は少ない。ともすれば価値観を押しつけられ、ふと口にしたことに尾ひれがつき、しつこく言うとしかめっ面される。

だからお金を払って聞いてもらう。でもそれならば、銀座のクラブのママと話すのと変わらぬではないか。カウンセリングという名がつくくらいだから、何かしらのカウンセリングならではの付加価値があるはずだ。

そう考えると、一つの思いが浮かぶ。
カウンセリングとは、少し未来の自分と話すことである、と。

カウンセリングでは価値観を押しつけられることがない。従って、自分がいいと思うことは、いいこと、になる。ただ、いいことの理由は意外と分かっていない。そこでもう一人の自分に扮するカウンセラーが、いいことの理由を考えるよう促す。

すると今まで意識していなかったいいと思う理由が現れて、なおいっそう、いいことがいいことのように思われる。もし理由が見つからなければ、いいと思っていたことは、いいことなんかじゃない、と考えを改められる。

そうやって深く自分と対峙できるのがカウンセリングルームという特別な場所である。

カウンセリングの本当の価値

そこに入るために、お金を払う。少しだけ物事を知ってる未来の自分と話し、こう考えてみたら?と促されるために、お金を払う。

けして好き勝手しゃべるためでも、思いの丈を吐き出すためでもない。それではただ愚痴のごみ箱を雇ったに過ぎない。それはそれでスッキリするかもしれないが、一時間一万円を払う価値があるか、といえば疑問だ。

カウンセラーは、自分とは似てないし、もちろん同じ価値観でもない。しかし、その心は空洞で、お金を払って得た一時間、未来の私に化けてくれる。話を聞きながら、私の今を取り入れ、未来色に染まって目の前に現れてくれる。

他人でありながらも、自分、つまり物理的に自分を二人得られるところにこそ、カウンセリングの本当の価値がある。

そう思えば、高額な料金も少しは納得いくのではないだろうか。

価値があるかどうかしっかり見極めよう

しかしながら、すべてのカウンセラーが心を空洞にできるわけではなく、基礎知識があれば、必要な単位を取っていれば、その職業をかたって働くことは出来る。だからキャリアのあるカウンセラーにこてんぱんにやっつけられ、傷つく人が後を絶たない。

そして現状では傷つくことをフォローしてくれる制度はない。どんなに傷つこうとも、自らの力で未来の自分になってくれそうな人を探すしかない。
それでも、①価値観を押しつけない②話を聞くだけでなく、未来の自分に扮して言葉を投げかけてくれる、という判断基準をもってカウンセラーのよしあしを見極めることは出来る。

誤った人選をすれば、それだけ治る時期が遅れる。残された時間には限りがある。何にお金を支払っているのかきちんと見極めた上で、自分にぴったりのカウンセラーを選んで欲しい。