新幹線の殺人事件、本当の悪は誰?

新幹線で起きた殺人事件。
ニュースを知った誰もが驚き、悲しみを感じている、と思う。

と同時に、赤の他人と距離のない空間に閉じ込められることの怖さにおののいたに違いない。この事件を通じて、ちょっと怪しい人を見かけたら”もしやあの人凶行にでるじゃ…”とおびえる意識が我々にすり込まれたと思う。

新幹線が開通して、五十有余年、このような事件が起きたことはなかった。それははなぜなのか、そして本当に問題があったのは誰なのか?
考えてみたい。

容疑者両親に見る特異性

この事件を受けて、各メディアは加害者(22歳)の父と母に取材をしている。
父は息子を「今は家族ではない」
といい
母は息子を「育てにくい子だった。自殺をほのめかすことはあったが、他殺するとは思いも寄らなかった。」
と主張している。

ここで注目なのは、子どもをこの世に生み出し、育てた親としてどうこの事件の罪を償っていくのか、というところに触れていないことだ。
子どもが犯した罪は、親である自分も背負って当然、と思うところ、まるで”成人してますし、戸籍も抜いてますし、一緒に住んでませんから私たち無関係ですよ”といってるかのようである。

状況がどうであれ、容疑者の命を誕生させた責任、そして人格形成に大きく寄与する青春期まで育てた責任はまぎれもなくあるのだから、大切な人様の命を奪うような人間を作り出したことにもっと真剣に向き合わなくてはならないんじゃないだろうか。

ネットでもさんざん言われているが、まるで他人事のようである。

つながりの薄さが凶行を招く

社会につまはじきにされ、誰からも相手にされないと、誰でも鬱憤が溜まる。その矛先がどこに向くかは、一定ではない。内向的な人間であれば我が身を殺めるところに向く、と思いきや、一転して外へ向くこともある。

今回の容疑者はおそらくそのケース。鬱憤の晴らし方が分からず、まずは矛先を自分に、次になんの敵意もない隣の人に向けた。だが、元来我々はいくらムカついているといっても敵意のない誰かを傷つけようなどとは思わない。
無理に想像しようとしても、憎くもなんともない相手を傷つけるなど、難しすぎる。

その難しさを、この容疑者はやすやすと乗り越えた。言い換えると、なんの心理的壁をも感じることなく行動に出た。それだけ容疑者の頭の中に、”こんなことをしたら悲しむ人がいる”というイメージが浮かばなかった、ということだ。

父や母に見放され、祖母とも折り合いが悪く、また親しい友人や頼れる教師とも出会っておらず、誰ともつながっていなかった容疑者。
人が人の世界から切り離されるとき、人ならではの優しさや思いやり、そして倫理は姿を消す。だからこそためらうことなく凶行に出る、という人間らしくない行いをした。

こんなのはマンガなどで描かれる血の通わない人間そのものである。我々はその人の形をした、でも人の心を持たぬ登場人物に、背筋の凍る思いをする。

人間が人間としていられるには、人間としての良心が必要だ。その良心を育てるには、つながりが必要で、つながりを得るためには父・母ともが、きちんと子どもの親になれてることが大切なのである。

本当の悪は誰?

では容疑者の親は、きちんと親なのだろうか。
否、事件が起きる前も後も容疑者とつながろうともせず、他人事のように振る舞っている。つまり、容疑者はもちろん、つながりをもたずきちんと親になっていなかった親こそ、事件の本丸ではないだろうか。

自分と血のつながった子は、親が死ぬそのときまで我が子である。子どもが犯したどんな不祥事も、親は本人以上に責任を持って向き合わなければならない、そう私は思う。