「愛」という言葉を聞いたとき、思い浮かべるのはロマンチックな情景か、あふれる優しさに包まれる瞬間か、のように思う。
だからみんなが「愛されあれば…」とすべてのトラブルを乗り越えられるかのように勘違いをする。
しかし実際愛があってもお金がなければ生活できないし、愛があっても知識がなければカモにされてしまう。
イメージする「愛」がすべてを救うことなどありえない。
だとしても、「愛」なき人生は無味乾燥で、生きる意味を与えてはくれない。
「愛」がなければ生きていて意味が無いのか、それとも「愛」さえあればどんな苦労も乗り越えていけるのか。
いったい、「愛」とはどのような存在なのだろう。
「愛」はメンドクサい
相手からの「愛」を感じるとき、それは相手から何かをなされたときだと思う。
手間をかける、お金をかける、時間をかける、勇気を出してくれる。
そういった何かをしてしてくれようとすることに、私への特別な思いを汲み取ることが出来る。
恋人として短い月日に、何かをしようとすることは、だれにでも出来てしまう。好きという気持ちがそうさせるのだ。
しかし時間を重ねるにつれ、好きという気持ちは失せ、何かをしようとする原動力は失せていく。そうなったとき初めて正味の「愛」が試される。
みな、自分のことで精一杯のところ、相手のために何かをしようとする気持ちを持てるのか。いや、そもそも何をしたら良いかを考える気力を持てるのか。その問いに行き詰まったとき、ほとんどの人は、”考えるのメンドクサ”と思う。自分の欲しいものは分かっても、相手の欲しいものは分かりづらい。分かりづらい何かを見つけることほど手間のかかることはないからだ。
いちいち探るような会話をする?直球で聞く?といったジレンマに侵されると、考えること自体イヤになる。そこで伝家の宝刀「思い込みでぶった切る」を展開する。だが、総じてその宝刀は「宝」としてより「害」として働くことになる。思い込みの押しつけは、相手への心を押しつぶす。
それを知ってか知らずか、「あなたのためにやったんだから大丈夫」というお守りを胸に、何かをしてあげた自分は「愛」があると信じて疑わない。その短絡さこそが、「愛」を潰す原因となっているのに。
ドラマ「ずっとあなたが好きだった」で冬彦さんが本当にすべきだったのは?
古いドラマで恐縮だが、佐野史郎さん演ずる桂田冬彦さんが、賀来千香子さん演じる美和と結婚し、家庭を築くなかで、姑の執拗な介在もありなかなか打ち解けられず、離婚する段になってから、どこで美和をみかけ、恋心を抱いたかを吐露する場面がある。
それを聞いて美和は、「早くいって欲しかった…」と口にした。なぜ自分は人質のように桂田家に嫁がされることになったのか、全く知らされてなかったため、冬彦が自分に固執する理由が分からなかった。そのことが余計、美和の心を閉ざし、最終的に二人の仲は壊れてしまった。もしもっと前に冬彦が美和に真剣に向き合っていたら、冬彦の中にある美和への「愛」がホンモノであると信じて、なんとかやり直そうと努力しただろう。
冬彦の”こんな思い、口に出すもんじゃない”という思い込みが、悲惨な結果を招いた。のだとしたら、やはりそこは冬彦が思い込みを取り払い、美和が何を求めているのか、を考えるメンドクサイ「愛」が必要であったことは想像に難くない。
我々の生活もこれと同じく、相手のことを考え話合いを重ねる必要があるのではないだろうか。
「愛」は特別なもてなし
私達は誰かと一つに溶け合うことはできず、皮膚という膜を境界に、それそれが別々の個体として存在している。その別々さをまとめうるものが話合いであり、話合いの中にこそ、相手の本当の願いを見いだせる。だが残念なことに、なかなか願いがストレートに語られることはない。
だから何気ない会話を重ね、ときに踏み込んだ話をもちかけ、互いが何を考えているのかを探るという行為をする必要があるのだと思う。その一連のメンドクサさは、誰を相手にしてもできるものではない。時間、場所の制限されるなか、この人にだったら、と思える相手にだけ施せる特別なもてなしなのだ。
一生涯で「愛」をかけられる人は少ない。だから「愛」は尊く、愛する人は限られる。それはやはりメンドクサさ故の絞り込みなのだろう。
では私達は日常で本当に「愛」する人と、話をし続けようとしているだろうか。思い込みを盾に、はしょろうとしていないだろうか。そう考えると、恋愛当初とはずいぶん違って、ズボラな自分が見えてくる。
なかなかホンモノの「愛」は手キビシイ。