「しょせん人間は動物なんだ」という認識の必要性

人間は他の動物と違って理性がある。人間だけが周りを思いやることができる。そうやって、「人間」という存在を動物とは切り離して考えてはいないだろうか。

もちろん我々に人間らしい面がないとは言わない。しかしほとんどの場面において発揮されるのは、人間的側面ではなく動物的側面だ。

ある男性が、妻に暴力を震われ、子供や家を取られ、不倫をされたあげく離婚を突きつけられた。にも関わらず、元妻を憎むことができず、離婚した今でもふいの呼び出しに応じている。彼はどこまでもやさしく、どこまでもお人好しで、どこまでも相手の中に動物的側面を見い出そうとはしなかった。

そのことが、結果的に彼を苦しめていた、というのに。

自分がない夫

東洋経済オンラインに紹介されていた48歳バツイチ男性の記事には、結婚11年で妻の暴力に耐えかね離婚した男性のインタビュー記事が載っている。
toyokeizai.net

どこにでもあるDVによる離婚話だが、一つだけ違う点がある。それは好き勝手した元妻を憎むことなく、なんなら今でも尊敬出来る部分があるといってることだ。

普通の感覚なら、自分を酷い目に遭わせた人間は憎むし、二度と会いたくないと思う。ところがこの御方、元妻の「ゲーセンに行きたいから、一緒にきて」という要望に応じている。離婚した理由は、暴力により命の危険を感じたことなのに、会うの?!

全く以て分からない。あまりに自分を護る力がない。そう思って読み返すと、婚姻中妻からかかと落としをくらっても、「稼ぎが少ないんだよ!」とディスられても、反論のポーズさえ取っていない。少しは自分というものがないんだろうか。

牧歌的思想を持つ人々の非力さ

DVを受け続ける人の特徴に、「相手に悪気はない」「言えば分かるんだ」「いつか分かってくれる」という日和見的予感がある。牧歌的というか、人間の理性に対する信仰というか、なんとも幸せな考え方だ。しかし、人間とて動物なのである。上下関係は敷きたがるし、弱肉強食である。この御方のように、反撃しなければ、気が済むまでボコボコにされたっておかしくはない。実際、男性は命の危険を感じる暴力を受け、警察に駆け込んでいるのであるから、家庭という場所にもまた動物的価値観は確実に存在するのである。

では、反論すればよいのだろうと、「暴力はよくないよ。止めてくれ。」などと言おうとする人がいるが、動物的な世界を全く分かっていない。動物は「やる」か「やられる」かだ。「やめてくれ」のどこに「やる」という強制力が働くというのだろう。こういう方法は「言えば分かるんだ」という牧歌的精神に立った考え方であり、動物相手にはまったくもって効果がない。効くのは、「やられる」という危機感を相手に抱かせるやり方だけだ。

従って、「暴力を振るうとその人自身がどれくらい追い込まれるか」を述べるのが正解であり、言葉は悪いが脅迫することだ。「暴力を止めてくれ」ではなく、「暴力を振るうと、禁固刑をくらいます」と脅すのである。こちらに体力等のアドバンテージがないなら、法律でも世間体でもなんでもいいから、使えるモノをつかって相手を封じ込めること、これが反論だ。

結局の所、こちらを格下に見ているから暴力を振るうのであり、脅威と感じれば直ちに従うのである。動物的価値観に照らし合わせて勝負すれば、最低でも互角に戦える。目には目をならぬ、動物には動物を、である。

というと、そんな横暴なことはできない、と尻込みする人も一定数いよう。しかしながら、これは相手を救う手段でもある。どんなに悪いことをやってもそれが否定されないと、行動はエスカレートする。気づくと、完全に天狗様になって、周りと相容れないモンスターと化してしまう。
こうなると、社会的生活に順応するのは難しい。そうなる前に「やり過ぎるとこういうしっぺ返しをくらいますよ」と教わる機会を与えることで、モンスターになるのを阻止してあげるのである。

この夫婦の真実

相手の機嫌を取ることがやさしさなのではなく、相手がまわりと上手くやっていけるように反論の手をさしのべてやることが、やさしさである。したがって、御方のように元妻に反論せずに居続けるのは、静かな虐待(ネグレクト)という解釈もできる。虐待はなにも積極的に暴力を振るうことだけではない。このように、どんどん好き勝手やらせて、社会から孤立させる人格を作り上げることも、である。

つまりこの夫婦は、元妻は積極的な暴力を振るい、御方は静かな虐待をしていた。奥様にインタビューを試みれば、「どれだけ私が可哀想だったか」を語るだろう。双方が加害者であり被害者だったわけだから。

良心を持ち続けられる人というのは、充足した人生を送っていて、これ以上の幸せを望まず、これから先の人生は人の為にお役に立ちたいという心境に達した人たちだ。まだまだこの夫婦の及ぶところではない。にもかかわらず、御方は妻の中に良心だけを見ようとし、動物的感情を見ようとはしなかった。これでは、妻は受け止めてもらった気にならず、不満だらけになったとて致し方ない。

暴力は是認されるものではないが、暴力を振るいたくなるほどの怒りは、取り合うに値する。それから目を背けた結果、二人の歯車が狂った。御方の中に、「しょせん人間は動物なんだ」という認識が欠けていたからである。