「あれが嫌い」と言うとどう思われるのか?

人間誰しも好き嫌いはある。しかし、それをいちいち口に出すかどうかは別だ。

ある人は嫌いなものを口に出し、ある人は好きなものを口に出す。さて、この「嫌いなものを口に出す」。嫌いなんだからしょーがないじゃん、と思うかもしれないが、意外と影響度が高い。

嫌いということの影響とは一体どのようなものだろう?

嫌いというメッセージの導くもの

嫌いで盛り上がるのは、そこにいる人全員が「嫌い」と思うときに限られる。たとえば、黒板を爪でキィーとひっかく音が嫌い、といえば、大半の人は、そのとーりと同意してくれるだろう。

では、自分だけが「嫌い」なものを言ったとしたら、どうだろう?聞いてる側は、最初こそ「ふーん」と思ってみたものの、次第に「嫌いの理由、全然同意できない。」「何が嫌う理由なのかイマイチハッキリしない」とイライラし出す。そして最終的に「この人は偏見に満ちている」と思われる。

一度偏見に満ちている人と認定されると、言ってることに信憑性がなくなる。あれこれ主張したとしても、「それってうがったものの見方じゃ…」とまともにとりあってもらえない。つまりたった一つの「嫌い」が信頼の失墜を招いている。

それほど「嫌い」というメッセージは、危険きわまりない存在なのだ。

「嫌い」と「好き」の違い

同じ感情の表出でも「好き」の場合は、全く様相が異なる。そこにいる全員が「好き」と思うモノを挙げれば、共感の渦を起こせるだろうし、仮に自分一人しか好きじゃないものを挙げたとしても、「ふーん」から始まって、「こんなにそれを愛してるんだ」「それを手にすると幸せなんだ」と周りをほがらかな気持ちにさせる。

多少変わった趣味でも、それはそれと思ってもらえるので、発言の信憑性に疑問符はあまりつかない。強いてつくとしたら、食べ物の好きが自分と違うんだな、オススメの店は話半分で聞こう程度。影響は軽微である。

つまり「嫌い」に対する影響は甚大なのに対し、「好き」の影響は極小で、両者の差はそうとうに開いている。従って、「好き」を口に出すのは無意識でもいいが、「嫌い」を口にするときは、誤解を招かないよう気を遣わなければならない。

それは発言における制限というのとは違って、「嫌い」による影響度の大きさを推し量りましょうね、ということ。「嫌い」と言葉にすると、その「嫌い」に関わる人を知らず知らずの間に傷つけてしまう。だからこそ、傷を最小限にとどめる努力を端折ってはならない。

日本語の優秀さ

その為に、日本語は「嫌い」に変わる言葉が用意されている。

  • 苦手
  • 得意ではない
  • 好きな人は好きなんだと思う

このようなボカシ言葉はその使い方次第で、他人への影響を抑えることが十分に可能だ。そして相手は「配慮ある言葉選びをしてくれてる」と感じることによって、十分こちらを立ててくれてるのだな、と感心する。そうすれば、「嫌い」は素直に伝わる。

「嫌い」という感情を無理に抑えなさい、とは言わないが、やはりそこは慎重な姿勢を求められる。

自分を守る方法

素直というのは「ストレートに感情を表現しなさい」という意味ではない。身勝手なコミュニケーションは、相手を傷つけ、発言の信憑性を失わせ、信頼を失墜させる。

山のようにある言葉の中から、気持ちにふさわしい言葉を選ぶことこそが素直であり、それは「嫌い」という短い文で表されるのが適当だとは思わない。

十人いれば十通りの嫌悪がある。それを言葉にする手間を惜しんで、使い慣れた粗暴な言葉をバーンと投げつけるのは、ただの横暴である。

本当に自分の気持ちを大切にするならば、周りに影響の大きい「嫌い」を止めて、代わりになる言葉を探してあげる。そうすれば無用な衝突を回避することも出来る。

これが自分を守ることであり、「嫌い」を伝える手法でもある。