よくしゃべる人が無口になるとき

私は社交的な父の影響もあって、どちらかというとおしゃべりだ。
頭に浮かんだこと、気になったことをホイホイ口にする。それで相手との間にリラックスした空気が流れるので、それでヨシとしていた。

そんな私は今、口をつぐんでいる。正確に言うと、出していい言葉が分からなくなってしまった。
言葉に繊細になればなるほど、実はしゃべれなくなるって、生まれて初めて知った…。

いつも心にひかかっていたもの

私はほとんどの人はスルーしている言葉にも、わずかながらの嫌悪感を抱いていた。

たとえば食事を提供したとき相手に「美味しい?」と訊くこと。お座り出来た犬に「おりこうさん」ということ。ボーナスの出た人に「よかったね」ということ。

これのどこに嫌悪を抱く要素がある?と思うかもしれない。
しかし「美味しい?」と訊かれれば、「美味しいよ」と言わざるを得ない圧力を感じるし、お座りできない犬は「おりこうさん」ではないという決めつけになるし、ボーナスに興味のない人に無理に「よかったこと」という判断を押しつけている。

ものごとの解釈は一つではないのに、鈍感な私はこの解釈こそ正しい!と勝手に決めつける無神経な自分に、わずかながらもいらだちを感じていた。

もし同じシチュエーションで言葉をかけるなら
「食べてくれて嬉しい」「(おすわりしてくれて)ありがとうね」「(ここ半年の)業績の結果が出たんだね」みたいなのにすれば良かった、と反省している。

無口になった経緯

今までわかりやすく相手を傷つける言葉さえ使わなければいいと思い込んでいた私には、相手がどう思っているかを考える余地などなかった。

だから私の言葉は私色に100%染まっている。
言い換えると、私色じゃない言葉を言ったことがない。そんな自分勝手な考えで40そこいらまできた人が、間違いに気づいたからといって、突如言葉の質を換えられようか?

だから私は無口になった。無口になって、自分の考えに割く時間を減らして、代わりにどういう言葉なら押しつけにならないだろう?と考え始めた。これはある意味、ReBornだ。
言葉を失い、そして言葉を作る出発点に立った。

無口こそ人間関係を豊かにする

無口な人は何を考えているか分からず、冷たい印象がある。しかしながら、自分が無口に転じてみて、なんと思慮深く豊かな世界にあふれているのかに驚かされる毎日だ。
思っていても口に出すか出さないかの選択をする分、無口な人の方が知的で奥深い人生を歩んでいるのかもしれない。

人の心を拾い、それを言葉にして初めて「分かった」の入り口に手をかけることが出来る。

しゃべっていればしゃべっているだけ、「拾う」ところから離れてしまう。

相手にとって自分がいて意味があるのは、相手の心を拾ってくれるから。つまり相手をよく知ろうと耳を傾けてくれる無口な人の方が、一緒にいて心強い。