メインキャラとザコキャラ

この人に是非会いたい!この人と話したい!と思える人がいる一方、いてもいなくてもどっちでもいいと思ってしまう人もいる。
人間は平等だというけれど、好きな人は好き、どーでもいい人はどーでもいい、これ現実。

少人数で会っているときは、一人一人の存在感が増すので、どーでもいい人であってもそこまでおざなりな扱いは受けない。

が、ひとたび大人数になると、そーいう人はその他大勢にまぎれる。

私自身、どーでもいい扱いを受ける側の人間で、そのことに不満を抱いていた。
にも関わらず、私も好きな人とどーでもいい人を無意識に分けていて、・・・だから他人を批判する権利などないのだ。

ならいっそう、平等に扱われるべき!!という概念を捨てて、不平等が当たり前であることを受け入れてみてはどうだろう?

-自分がなぜゲームで言うとザコキャラに成り下がってしまうのか-それを考えてみる。
私が思うザコキャラのザコキャラたるゆえんは、影響力のなさだと思う。
ザコキャラと一緒にいても、いい気分にもなれないし、新たな発想が生まれることもない。すなわち、もてなしイマイチ、ひらめきイマイチってこと。

人と会うということは、そこになんらかのベネフィットが生じることを期待しているわけで、それが実現されなければ人はすぐに飽きてしまう。
校長先生の長話に子供たちがつきあえないように。

では、メインキャラを張れる人はどーいう人かというと、もてなし上手である。
その人の口から紡ぎ出される言葉の数々が、聞き手を幸せな気分・前向きな気分にしてくれるから、聞き手はその人の言葉を聞き続けたい、もっと浴びたいと思う。
結果として、その人に注目が集まる。
これがメインキャラがメインキャラで居続けられるゆえんだと思う。

もちろん、その人が大変頭が良く、問題解決に優れている場合などは、もてなし下手であってもおつりが来るので、若いうちはメインキャラを張れるだろう。
ただその頭脳が生涯にわたって保持し続けられるかは疑問である。

つまり一般に言う「人柄」がメインキャラとザコキャラを分ける鍵となる。
その人柄を作るのは、その人を取り囲む環境である。
まっさらで生まれてくる赤ちゃんは、環境によって脳のどの部位が活性化し、どの脳神経が太くなるかが分かれる。

親が批判的な目線で子育てをすれば、批判的な分野について多く信号を受け取ることになり、批判分野の脳が発達する。
肯定的な目線で子育てした場合も同様、肯定分野の脳が発達する。
脳の信号は神経が太ければ太いほど流れやすく、ある一つの事象を目の当たりにしたとき、批判的な認知をするか肯定的な認知をするかは脳の発達具合に依る。
俗に言う「コップに水が半分入っているときに、『半分しか水が入っていない』と思うか『半分も水が入っている』と思うか」ってやつ。

だから批判的な親の子は批判的になりやすい。


自分を振り返ってみると、親は常に私を否定し脅迫していた。
そのせいか、私の口からでる言葉は、否定や相手つぶしばかり。
相手のいいところを見つけることがド下手である。
そりゃ、相手からしたらもてなし下手の私なんかより、もてなし上手の人と一緒にいた方が楽しかろう。

批判的な子育てによる影響は、これだけにとどまらない。
ザコキャラに成り下がった人は、ことあるごとにバカにされやすく、自信がつきにくくなる。それに加えて、批判的なものの見方は、時に自分の存在をも攻撃する。
そうなれば、自暴自棄になったり、生きることがザツになる。当然、能力をフルに活用することなど出来ず、社会的信用でさえも、イマイチな結果となる。

メインキャラの人が人々から評価を得て昇進していくのと対照的。

なんかまとまりがなくなっちゃったけど、
私の中にある自信のなさとか、いいわけがましさとか、軽んじられやすい事実とか、そういったものをひっくるめて、「やっぱ、自分の脳がそうできてんだよね」みたいな納得感と、だからって放置するわけにもイカンので、どーしようかなという戦略が練れるよーな、練れないよーな混沌とした感じの中で、今の自分の気持ちを書いてみました。