自尊心の切り出し

自分の母親から愛情をもらった記憶が薄い。
そのせいか、ドラマの中で母子が描かれるとつい食い入って見て、「あ~そういうのが親子ってもんなんだ」と後追い記憶のようにたどる。

昨晩放送のWomanでは、満島さん演じる母親が子供2人に「今日はお母さん、一緒に遊びたいから休もっかな~。」と言うシーンがある。子供は大喜びで、「ぐるぐるしたいーい。」と大騒ぎ。

「じゃ、ぐるぐるしよ、しよ。」とみんなで手を繋いで輪になってぐるぐる。キャッキャと笑い声が溢れる。

このなんでもないシーンに深く親子愛を感じる。

子供の中に「いつもお母さんはお仕事で忙しいから、寂しいけど我慢しよう」という心があって、母はそれをちゃーんと見抜いてて、だから子供の予想を上回る[休む]という手に出ることによって「お母さんは貴方たちのことが一番だよ」と伝えている。

子供は素直に育っているので、「何する?」にためらうことなく「ぐるぐるしたーい。」と言葉が出る。
けして母親を喜ばすために「御本をよんで」や「勉強を見て」と言わないところがいい。
子供は遊びたい、母親から愛されているか知りたい、に決まってるのだから。

子を想う母、母の想いに応える子供。
--これが母子のあるべき像ではないか-- と、私の心に深く染み入ったのです。

私たちは普段言葉で意志や感情のやりとりをする。
心の状態を代弁した言葉を介して、相手に心の状態を渡す。

相手はその心をそっと掬(すく)い、大事に愛でる。
そうすれば、心が玉のような光りを放ち、場が温かくなる。

この「心」を自尊心というのだと思う。
なにも尊ばれることじゃない。すでにある「心」がそれだけで価値ある存在として認められること、それが自尊心を大切にされるということ。
思い通りにしない、支配しない、決めつけない。ただ掬うだけ。
静かに相手の心の傍にたたずみ、そっと手を伸ばすこと、それだけが相手の自尊心を守る唯一の手立て。

ところがこの自尊心、訓練しないと見えてこない。
相手の外観にへばりついている、見栄・欲・権威を丁寧にはぎ取って、最期に残ったものが正体。
はぎ取るのは、忍耐と丁寧さがいる。
そして、この難解な作業を価値あることとして見抜ける人は少ない。
だから人は相手が相談してきたとき、自分の意見を述べる。
自分の頭に浮かんだこと、心を支配した感情を説明することは至極簡単だからだ。
意見する人に限って、自らの自尊心の正体をさえも知らないことが多い。

昭和中期、大概の母は子供にしっかりとしたレールを敷いてやり、その上を安全に歩かせることこそが、愛だと思っていた。
だからその子もまた我が子に同じことをして、愛を与えようとする。
しかし、その子は感じてたはずだ、愛の重苦しさを。
愛は重さを感じる類のもんじゃない。
愛は温かみを、希望を、感じるもの。
つまり今我が子に与えようとしている愛は間違えている。

愛は与える側は特に厳しい。忍耐を要する。
一刀一刀心を込めて、木の中に隠れている仏をノミで切り出すかのようだ。
けれど一番大変な作業だからこそ、愛する我が子にしてやるもんじゃないか と私個人は思うのです。