「分かってもらえる」治療は存在するのか?

アダルトチルドレン(AC)は生まれてからずっと、「分かってもらえる」ことを夢見ています。一度でいい、言い分をまるごと受け止めてもらって、心ゆくまで分かってもらえたを実感したい。

けれどもその夢が叶うことはありません。運良く1回か2回浅く経験できたとしても、満足とまでは行きません。

「そんなのズルい。もらえる人はいっぱいもらってんじゃん。」

そうです。その通りです。でも示された現実はそうではありません。では、どうしたらいいのでしょう。

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「分かってあげる」ことの難しさ

泣くことが多くありませんか?家族の愛を目の当たりにして、大粒の涙を溜めている。ずっと独りぽっちだった。誰にも味方してもらえなかった。私の存在なんでまるでなかったかのように、親兄弟友だちは振る舞ってきました。

だから愛に包まれてる人がうらやましいのです。あんな風に愛されたいのです。今まで愛されるために、一生懸命ご機嫌をとりました。言われたことも必死でやりました。いい子でいようとしました。

けど、相手にされなかった。どういうことでしょう。

それはーやってることのピントがずれてるからーです。どんな具体的な指示を受けようとも、相手の本意をつかみ取れなければ、やっぱり分かってあげられてはいないのです。

つまりあなたは分かろうとして一生懸命なのに、相手を分かってあげられていない。

この矛盾にこそ「分かってあげる」ことの難しさがあります。

「分かってもらえる」経験の得がたさ

ところで「分かってもらいたい」中味は、口で言い表したこととは違うと理解していますか?実はその言葉を言わせた魂胆、これが分かって欲しい中味です。

たとえば、自動ドアの前で子供が足踏みをしているとします。それを見ていた大人が「どうしたの?」と尋ねると、「ドアが開かないんだ」と答えてきました。優しい大人は、それじゃあ、と言って自分が前を歩いて自動ドアを開けてあげました。
すると、子供は喜ぶどころか、わんわんと泣き始めたのです。

泣いたのは、自らを足踏みさせ「ドアが開かないんだ」と言わしめる魂胆(※1)を無視されたからです。では大人は何を語れば良かったのでしょう。これを分かる人が少ないから、「分かってもらえる」経験は得がたいのです。

それにものすごく勘のいい人がいて、「分かってもらえる」経験を与えることができたとしても、受け手に強い快感が伴うために繰り返し「分かってもらえる」ことを迫られ、嫌気が差して離れていくこともあるのです。

つまりWの意味で「分かってもらえる」経験は得がたいのです。

「分かってもらえない」ときどうするのか?

分かってくれる人の数が少なく、分かってくれる人に出会っても離れて行かれる。としたら、「分かってくれる」という願いを聞き入れてくれる場所はどこにあるのでしょう。

そこでとある医師のこのような言葉を引用します。

受容は「あきらめ」から始まることが多いようです。それはやがて「克服」に変化します。そして両親は「新しい価値感の構築」をして、最後に我が子を「承認」することが多いように見えます。

小児科医 松永正訓

障害児を持つ親の心の変化を語ったものです。障害を持った子を授かったという運命を前に、どうそれに向き合い、変わっていくのか。
これは機能不全家族に産み落とされたACの運命と似たところがあるんではないでしょうか。

避けることのできない運命の最初に出来ることは、「あきらめ」ること。言うなれば受け入れることです。どうしようもない環境を前に、私達は抗いすぎです。「もっと良い環境に生まれたら、もっと優しい親だったら」。そう言って仮の話に切り替わらない今を恨んでいる。

では、それを続けてきて何を得ましたか?

何も得てない。ただただ泣いてるだけです。ただただ「分かってくれない」不満を溜めてるだけです。

だから「あきらめ」てしまいましょう。すべてを受け入れて、ここから展開できるストーリーを考えましょう。しょせん「分かってもらえる」治療など存在しないのです。

ただしあなたが「あきらめ」れば、「克服」を経て「新しい価値感の構築」をし、どんなことをも「承認」できるようになり、いつか誰かを「分かってあげる」ことができる。そしてその先「自分を」分かってあげられるようになる。

誰も分かってくれなくても、自分が分かってあげられるのであれば、それこそ継続可能な支援です。元々の願いはこのような形でなら叶えられます。

すべては「あきらめ」る覚悟次第です。どうしますか?

(※1)子供の魂胆は「自分で自動ドアを開けたい」でした。それを無視されたばかりか、開けるチャンスを取り上げられてしまったため泣いてしまいました。