心底困ってるときに他人の苦労話など聞きたくない

母親が退院したとき、お見舞いに来てくれた人がそろえて口にしていたのが、「私の知り合いにも同じ病気をした人がいてね…」。

面識もない友人の知り合いの話に、困惑した母親の顔が忘れられません。

けっして健康な体に戻ったわけではない。将来に不安を抱える中、知らない人の話を聞かされるのって、どうなんでしょう?

やっぱりね、自分が困ってるときには、他人の苦労話など聞きたくはないのですよ。

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他人の苦労話を聞きたくない理由

理由は3つあります。

一つ目は、自分でいっぱいいっぱいだからです。発症してから退院に至るまで、なにもかも初の経験です。驚いたことも、悲しかったことも、悔しかったこともあって、心がパンパンに腫れあがっています。

だからこそ胸の内を聞いてほしいのです。聞いてパンパンになった頭の整理を手伝ってほしいのです。

そんな状態ですから二つ目、人の話を受け入れる余裕はありません

そして三つ目。そもそも顔も知らない第三者の話など、どうでもいいんです。同じ病気であっても、同じ回復の道のりとは限らない。先生から聞かされたことが一番症状に沿ってるのですから、それで十分です。

これらの理由により、知人の話はまったくもって不要です。

ただ聞いてくれればOK

本心は、ただ聞いてほしい。ちょっとだけ私の置かれた立場を想像してみてほしいんです。ほんの少し分かってもらえると、ホッとできます。受け入れられてる気がして、じんわりと心が温かくなるんです。

安らぎというのは、わかってもらうことを通じて沸き起こる感情です。体はマヒして動かなくても、心が温められると自由に動ける気がする。そういう幸先のよいスタートを切らせるために、見舞い人は「聞く」に徹っしていただきたい。

「話す」のと違って、「聞く」は労力が要ります。想像力を働かせなければなりません。その労働が、ほんらいはお見舞いの品。

ところが人はつい話を切り出そうとします。話すのは、決まって病気にまつわる記憶。つまり、見舞い人の思い出。

だからこそ、知人の話が口をついてでる。見舞われる方は、わざわざ来てくれたのだからと気を使って、付き合ってあげますが、内心は悶々としていることでしょう。

そんな主従の逆転した風景が、お見舞いの場で繰り広げられているとすれば、お見舞いとはいったいなんなのでしょう?

この違和感を足掛かりに、困っているときほど他人の苦労話など聞きたくない、と心に留めおきたいと思います。皆様もお気を付けください。