いつの間にか会話泥棒しちゃってない?

相手の話を聞くつもりが、いつの間にか自分の話してしまっている。そういう会話泥棒しちゃってません?

たとえば


相手:この前、すっごく美味しいアンパンいただいたの。パンはもちもちで、こしあんの甘さが最高だったわ。
私:へぇ~。どこの?
相手:○○屋って書いてあった。
私:知ってる~。そこの甘くて美味しいんだよね。あんパン以外にも塩パンも美味しいの。そういえば、そこから500mほどいった先のパン屋も美味しいのよ…。


相手の「美味しいパンに出会った感動」を押しのけて、私の「パンに詳しいの!」がしゃしゃり出てしまっています。そんな「私がー」という気持ち、うまく抑えられたら、聞き上手なだけでなくおしとやかさを漂わすことだって、できるかもしれません。

人から、「しゃべりすぎ」「ウルサイ」といわれて落ち込んでるなら、これをきっかけに、しゃしゃり出たくなる気持ち、見直してみませんか?

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しゃべり過ぎは自然な成り行き

好きなだけしゃべっていいよ、って言われたら、人はどこまでしゃべり続けられるでしょう?

おそらく、体力の限りです。出して出して出し尽くして、「分かってもらえる快感と、受け止めてらえる安心感」という幸福を得たいと願っています。

その願いがあまりに強く、話すことに必死です。

当然、まわりが見えなくなっていることでしょう。困惑した相手の顔も、会話を横取りしてしまった事実も、視界からすっかり消えてしまっている。結果として、思うがままに突っ走ってしまい、後から「しゃべり過ぎたかなぁ~」と反省することになるのです。

人って、規制がかからなければ、しゃべり過ぎてしまう生き物なんですね。

私は人の気持ちを分かってない

では、先の例を見てみましょう。

一見すると、話を切り出してるのは相手ですから、引き続きしゃべり続けられそうなものです。でもいつの間にか私にバトンが移っています。どこでバトンタッチしたんでしょう。


相手:この前、すっごく美味しいアンパンいただいたの。パンはもちもちで、こしあんの甘さが最高だったわ。
私:へぇ~。どこの?←←←

バトンタッチしたのは私が最初に口を開くシーン、「どこの?」でした。

相手が話したかったのは、「美味しい」パンに出会ったという感動です。ところが、私は「『どこのか知りたい』と思った」ので、「どこの?」とたずねました。

相手を押しのけて、私が出てきてしまってますね。これが、しゃべり過ぎの原因です。

時計の針を戻して、もう一度←←←のところを立て直すとすればどうしたらいいでしょうか。



「あれ?分からない。」

事前に「美味しい」という感動を伝えたかったんですよ~と予備知識を植え付けられたにもかかわらず、何も思い浮かばない。でもそれが真実です。私は人のこと、ぜんぜん分かってなかったんですね。

心で感じたら見えてくるもの

ずっと、「何しゃべろっか?」ばかりを考えてきたので、「人が何を考えてるかのセンサ」が錆びてしまったようです。錆びを落として、オイルを挿して、滑りをよくしてみます。

そのためにまず、「私が私である」時間を消してみます。次に、空いた身体にポコっと相手をはめ込んでいく。「美味しかった~」という感覚と自分を一体化させ、美味しかった感動を後追い体験してみます。

すると、すっごく感動したから誰かに聞いて欲しいんだな、という気持ちが内側から湧いてきて、「どこのか知りたい」から「感動を分かち合いたい」に意識が切り替わるのを感じられました。

これが「相手を分かってあげる」です。この感覚のまま言葉を紡げば、「私が」出ることなく話を進められそうです。

つくづく「話は、頭で『聞く』ものではなく、心で『感じる』もの」だと思いました。相手になりきって、話したいと思った動機を探ってみると、今までとは全然違った心情風景が浮かんでくるんですね。

せっかくなので、もう一つくらい考えたいと思います。たとえば、友達が「私、最近体重減りまくって、『スタイルいいね』って男子から言われるのよ」と言ってきたとします。頭で「聞く」と、ただの自慢に聞こえます。では心で「感じる」と?

不安が見えてきます。自分で自分を受け入れられないから、自慢話をして、代わりに私に「すごいね」と賞賛混じりに受け入れて欲しい気持ちがひしひしと感じられました。

最終的に見えた二つの風景、やはりずいぶんと違いますね。

会話泥棒しないために出来ること

頭で話を「聞いて」しまってる人は、もったいないことをしています。2番目の風景を知る楽しさを味わえないなんて、人生損してます。

2番目の風景を知ることができれば、相手の気持ちにピタっと合う返しができます。相手の顔が緩みます、相手が心を開きます、信頼を寄せられます。

これは、人の中に自分が生きてる!という実感にそのもの。独りぽっちではないんです。ちゃんと人の輪の中に入ってるんです。

これほど心強いことはありましょうか!相手になりきるだけで、こんなにも充実した展開が待ち受けているなんて。

「私が私である」という時間を消すことは、かなり難しいです。けれど、人の輪の外にいる虚しさに比べたら、大したことありません。これからは短い時間でも、相手になりきってみる意識改革をしてみようと思います。