こういう人を見ると心がザワつく~私の苦手な人

どんな人が苦手ですか?

人によって回答は分かれそうです。どの回答もそれっぽくみえる。その中から、私個人が苦手とする人を考えました。

その人はズバリ、「私を押し出す人」です。

たとえば、毎回「こんにちは、○○コーディネーターの××です。」から始まるブログ。文章なのに、その人の顔面がにゅーっと前面に出てくる気がするのです。他には、
「私がこれこれしたからこうなったのよ!」という言い様。私という存在バルーンがドーンと打ち上がってる。

読む人に大事なのはどれだけ有用な情報を手に入れられたかなのに、自分の存在意義の確認にすり替えられてるとき、なんだかなぁ~という気持ちが逡巡します。

「私が」ドアップが、ハンパナイのです。

それを苦手と感じてしまう理由

なぜ苦手か。それは表面上、その存在感の後押しのヒドさにあると思います。けれど、問題はもっと奥深くに潜ってるんですよね。

おそらく、当人の「報われない、やりきれない思い」。私は十分に評価されていない、私はやってもやっても認められない、という枯渇感が、「ワーターシィ」というお化けになって現れてるから、存在感の不気味さが目立つ。

ほんらい、存在感とは前に出るものではなく、醸し出されるものだと思います。あの人のあの佇まいは存在感がある。あの一言にスゴみを感じた。といったような、控えめでいながら、奥に秘めたものはすごいんだぞ感が、真の存在感に思います。

それに比べて、存在感を高らかに宣言しちゃってるってことは、存在感がないから、むりやりハリボテでもなんでも出しとかなきゃ!みたいな焦りとこざかしさの混合物を間に合わせで押し込んでる気がしてなりません。

そんなせこいマネがなんともいえず、見ている人の居心地を悪くする。だから苦手と感じるのでしょう。

上位の人にもある「私の押し出し」

これは、人間としての格がどうなの?という人だけでなく、高名な人、その世界で名を成してる人、人々が賞賛している人の中にも見られます。

なんかすごい人なんだ~と思って会ってみると「あれ?いま、『自分を押しだし』たよね?」と思うことは少なくないです。著作を読んだときも、うん?この一節は、押し出しかな?と思うところがチラホラ。

そういうのを全くしてない人というのは、
稲森和夫氏、山口周氏、森博嗣氏、松永正訓氏、といった人たち。驚くことに、普段師と仰いでいる人たちは入りません。

それくらい稀なことなんだと思います。

相手を分かることに価値がある

時代は、「自分を押し出す」ことへとシフトしています。SNSは自分アピールを加速するためのツールを用意しており、その中で存在感を示すことは、もはや商売として成り立つほどです。

そんな時代だからこそ、「控えめ」というか、「人を立てる」ことが当たり前にできる人が重用されるのではないでしょうか。人間に出来て、AIに出来ないことが、「相手を分かる」ことです。相手100%の時間をほんの数十秒でも実現するのは、とてつもない思索を要することだと、私は思います。

この十年、自分の心に渦巻く違和感の正体を追い求めてきました。そして、その一つが「自分を押し出す」人々の胸に秘められた「報われない、やりきれない思い」叫びだったのです。

これをどう処理していけば良いか、手当していけばいいか、これからまた十年かけて考えていこうと思います。