親の「普通に育って欲しい」が子供を潰す

子を宿したとき、すべての親が「この子は健康で、幸せになって欲しい」と願います。妊娠中から、食べ物に気をつけ、話しかけ、優しく見守ります。それはひとえに、子を思う親心。

けれど、それが落とし穴です。子を思うばかり、つい普通に育って欲しい、イジメられたり、のけ者にされたり、標準から外れたくないと身構えます。

その頑なさが子供のしなやかなさを潰しているかも。子供は十人十色です。我が子がどんな色を持ってるのか、ちゃーんと見ていますか?

したいをはき違える親

幼稚園くらいのなると、習い事の一つもさせようと、いろいろ調べることでしょう。そのとき気にするのは、子供の能力がどれだけ伸びるか。伸びた子が大勢いる、評判がいい。そういったことを参考に、習い事を決めていきます。

そして子供にこう語りかけます。「○○習いたい?」

まるで子供が○○を習いたいと言った体です。中身のよく分からない子供は、示されたそれを吟味する力もなく、YESというか、NOというかしかありません。

そして積極に断る理由がない以上、答えはYESに決まっています。

しかしやってみると、全然楽しくない。先生も、楽しくなさそうにやってる子をみて、指導する気が失せ、楽しくないはどんどん加速していきます。

それをしってかしらずか月謝を払っている親。成果がでるまで止めさせるわけにはいきません。

そしてこう言うのです。「やりたいっていったのに、なんでやらないの。普通くらいに出来てればいいのよ」。

ひきこもりをつくる親

近所の子が、○○高校に合格したとします。それを聞きつけた親は、○○高校くらい「普通」に入れると勘違いします。だから子供に近所の子がどこに合格したかをさりげなく伝えます。内心「○○くらい入って当然」と思いながら。

聞かされた子供は、プレッシャーを感じます。親から示された暗黙を、きちんと読み取っているのです。親の普通が○○高校以上だってことを。

だからいざ受験となって、○○高校のレベルには届かないと分かったとき、親の期待に応えてられなくて、申し訳ないとふさぎ込みます。ひどい場合は、自分にレッテルを貼って、自尊心がズタボロな状態に陥ってしまいます。

受験を期にひきこもりになってしまう人の何割かは、親の普通を達成できなかった自己嫌悪によるものでしょう。

比較しまくる親

親が東大に入れたから、子供もそうなるだろう、と信じて疑わない人たちがいます。親の実力、イコール、子供の実力。

お父さんの場合はこうだった、お母さんの場合はこうだった、と経験ばかりを引き合いに出して、出来ない子供を排除しようとする。ようは、こんな出来の悪い子を持った自分に耐えられないのです。

これは兄弟にも言えて、お兄ちゃんは賢いから、あなたも賢いはず。お姉ちゃんは器用だから、あんたも器用なはず。そういって、同じ血筋の者を引き合いに出して、これくらい出来て当然をぶつけまくる。

やろうとしてもやれない本人は、辛いでしょう。好きで、そうあるわけじゃない。

きっとその子にもその子なりの秀でた部分があります。けど、親は自分の頭の中にある物差しでしか、物事の善し悪しを判断しません。だからその物差しから外れたところにある子供は、いてもいなくても一緒という扱いになります。

存在そのものを否定されるとき、人は人としての誇りをもって生きていられるのでしょうか。

「普通」なんてただの思い込み

ほんらい、絶対的にこれは正しいという物差しはなくて、注意深くこれはいいかな?あれはいいかな?と吟味していきながら、その子にとっての最適は探られるべきです。

手間は掛かるでしょう。メンドクサイでしょう。けれど、合わせてくれようとする親の姿を見て、子供が「わたしは一人じゃない」と感じることができる。

世間様に立派と言われることの何が大切なのですか。世間なんて移ろいやすく、賞賛していたかと思えば、手のひらを返したように冷たくなることなんて、山のようにあります。

そんな移ろいやすいものに、価値の軸を委ねるのではなく、子供という存在を尊び、立てて、認める方がよほど強固な正しさではないですか。

子育てに「普通」を求めたい気持ちは分かります。けれど、求めれば求めるほど、子供を窒息させてしまう。とくに発達障害のような、「普通」を求めにくい中で、どうやって生き抜いていくかは、「普通」のかなぐり捨てからすべてが始まるように思います。

私達が拠り所としている「普通」。もうすこし引いた目線、疑いの眼差しで見てみたらどうでしょう。「普通」と思ってることは、私達一人一人のただの思い込みに見えてくるかもしれませんよ。

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