なぜ人は「結婚」を求めるのか

「あなたはなぜ結婚したいのですか?」
この問いに人々は様々な答えを出します。

「寂しいから」

「経済基盤が弱いから」
「家事が苦手だから」
「子供が欲しいから」
「親が望むから」
「一人暮らしだとなにかと心細いし」

どれもそれなりの欲求から派生した答えなのでしょう。
でも、これをもう一段階上の概念に引き上げるとある共通の概念が見えます。

それは・・・

「自分が何者かを知りつづけたいから」

です。

どういうことかというと、
人は一人では生きていけません。
それは、人は自分で自分を意識できなければ、精神的に不安に陥るからです。

「自分を大切に思ってくれる人がいる、自分を認めてくれる人がいる、自分がいることで人が感謝してくれる」といった自分に還流してくるものを掴むことによって、”私は私でいい”というアイデンティティーや自己肯定感を持つことが、明日に命をつなぐ唯一の方法なのです。

”私”という足下を失ってしまうと、人はいとも簡単に命を捨ててしまいます。

人は”私”を確実にするために、あれやこれやと手を伸ばします。
そして、それをもっとも着実にする方法が、家族を得ることなのです。
あなたが生きている意味を、あなたの家族が与えてくれる。
これが結婚です。

もし結婚が制度としての側面だけであれば、産業ロボットのように、夫と妻の仕事はきっちりと分担され、もちろん感謝の念など必要なく、黙って運用されるでしょう。
それで満足する人は、ほとんどいないでしょう。

おおかたの人は、精神的な安らぎ、なにかに帰属している安心感、助け合える環境を望んで結婚します。
結婚という生活にそのような要素をもたらすつなぎ目の役割をするのは、間違いなく「人(つまり配偶者)の気持ち」です。

気持ちを掛け合いながら生きる→すなわち相手から気持ちを掛けてもらうことで価値ある自分を認識し続ける ことが結婚の目的なのです。

仏に身を捧げた人は、結婚をする必要がありません。
それは、自分の存在する意味を仏が授けてくれるからです。

「婚活」という言葉が生まれ、もてはやされ、定着し、なにやら結婚というのは人々の生活にとって切っても切り離せないお祭り的要素のようになっていますが、いつの時代も、「自分は何者か」を知りたい気持ちは変わりません。

だからこそ、今日も明日も「結婚、結婚」と騒ぐのです。