「相談がある」→「手に余るもの押しつけられる」と理解しよう

「相談がある。話できない?」と言われると、「なに?なに?私に頼りたいのかな(ウキっ)!」と思う人もいるでしょう。役立てるチャンスが回ってきた、と思うと、存在を認められた気になるのです。

しかし、相手はそうは思ってません。もっていたくないもの、手に余るものをどうにかして手放したいだけ。ようは厄介払い。相手は誰でもいいけど、口のかたそうな、反論してこなさそうな、「使える」人間であれば誰でもいいのです。

そんなお便利ちゃんに指名されて、喜んでいる場合なのでしょうか。

相談にのるなら腹をくくれ

相談にのるということは、相手のなかに渦巻く感情を受け取ることです。そして感情が聞いてて楽しいものでないのは、100%明らかです。なぜなら、聞いてて楽しいなら、わざわざ「相談がある」など前置きせず、そこかしこの人にしゃべればいいのですから。

秘め事でかつ、誰もが聞いてくれることじゃないことだから、いちいちお伺いを立てるのです。伺いを立てられてる時点で、腹をくくらねばなりません。その人のために尽力したい、時間を割かれても本望だ、と思わなければ、即刻お断りすることをすすめます。

それは、その後がこうなるからです。

一度OKを出したら、相手はまずもって遠慮することはなくなるでしょう。ダムが決壊するかのごとく、感情の洗いざらいをぶちまけてくる。それこそ、人によっては24時間、いつでも応対しろ、と迫ってくるかもしれません。

この場合のOKは、軽いうなずきではなく、一心同体化することを了承したという、とてつもなく重いうなずきなのです。はっきりいって怖いです。相手に飲み込まれそうな怖さがあります。

だから「相談がある」というのは、喜んで聞く言葉ではなく、やめてくれと忌避する言葉です。

相談にのる代わりにできること

もし、頼りにしているのであれば、「相談がある」ではなく、「アドバイスが欲しい」とすこしばかり毛色の違った切り出し方をしてくるはずです。

「アドバイスが欲しい」というからには、問題はすでに整理されています。問題は明らかになっているものの、硬い自分の頭ではアイデアの広げ方が分からないから、人に刺激をもらって、多角的に考えたい。

これなら感情を受け取る必要はありません。論理的に組み立てて、アドバイスして終わり。短い時間で済むし、遠慮は保たれます。24時間とかエンドレスな事態にもなりません。

自らの感情は、自ら「悩む」しかないのです。しかし解決方法の模索なら、人の手を借りられる。こういう時にこそ、他人を頼る意味があるのです。

相談したい気持ちの対処方

人の感情は、人のもの、自分の感情は、自分のもの。そういう区分けはきちんと引いた方がいいです。感情を受け取られない代わり、感情を侵されることもない。その独立性が保たれるからこそ、尊重は守られ、独立は担保されるのです。

だからこそ一般の人々の間で、「相談」はなされるべきではないと思います。むしろ「相談」なんかしたら、ひっちゃかめっちゃかになってしまいます。それは先に述べた遠慮が失われることだけでなく、一般市民の中に感情の分離の技術が広く行き渡っていないからです。

カウンセリングのように、感情の分離の技を訓練している相手に、決められた時間、決められた対価を払って「相談」に乗ってもらう場合は、独立と、時間的制約と、お金を払う痛みが伴うために、解決意識が芽生えます。

いつも心のどこかに「好き勝手できないんだ」というわきまえをもつことで、問題から外れることなく、邁進していけます。ところが、わきまえなしに応じてくれる環境を持ってしまうと、「依存」のどツボにはまっていきます。

これは、相談する側、される側双方にとって、危険です。

友達という間柄に境界を引き続けるのは、我々が意識するよりもはるかに難しいです。誰かに相談することは、やめるにこしたことはありません。

カウンセリング代がないというなら、ぜひ悩みを紙に書いてみてください。書いて読み返すだけでも、心を落ち着かせられます。