自分の足で立てない人が起こしている過ち

あなたは、つい周りの人に手を貸したがる癖がないだろうか?そして、良いことだと思ってはいやしないだろうか。

確かに、困っている人を見たら手を貸しましょう、とは習った。けど、それはあくまで相手が「助けて」と言ってきたとき。そうではなくて、暗にほのめかしてきたり、察して欲しいを強要してきたりしてきたときまで、役に立ちたいと思っている。

だが、そういうときに限って、手を貸したところで大して喜ばれもせず、納得いかない結末になる。

それはどうしてなんだろう?なにが足りたいんだろう?人のために何かをしようとするのは、間違ったことなんだろうか?

いつまでも幸せになれない人の特徴

こんな傾向はないだろうか?
「人恋しい。誘われるより誘う側。そして会うと人の役に立とうと、情報提供をしたりアドバイスしたり頑張る。」

この手の人は、人に寄っかかったり、寄っかかられたりがデフォルト。「支え合い」という言葉が大好きで、協力し合ってみんなで頑張ろう、がスローガン。相手の愚痴れば耳を貸し、話を聞いてくれる人がいればどこまでも愚痴を吐きまくる。「相談に乗って欲しい」と言われることに喜びを感じ、自分も一人で悩むより誰かに相談する。結果、一人の時間を持って内面と向き合うことをしない。

内面と向き合わなければ、自らの過ちに気づけない。10年経っても成長しない。でも周りは成長していくので、自分だけ取り残されて、あげく見下される。

そんな循環から抜け出すことができず、私の思う「支え・支えられる」相手がいない、と深く落ち込む。

虚しさにつけいる人

そんなとき、誰かが「いつも頑張ってるね」だとか「アナタが正当な評価を受けてないなんて信じられない」といいながら近寄ってきたとしたら、どうだろう?
「この人こそが私の望む関係を築ける唯一の人!」、そう思うのではないだろうか。

その後も相手の口から語られる言葉の数々が、カッスカスだった自分の心に潤いを与えていくとしたら…。悪いのは私じゃない、私をまともに取り合ってもくれなかった相手なんだ。だって現に私の心を代弁してくれる人があらわれたじゃないか。もし私が誤ってたというのなら、こんな風に肯定してくれる人なんてでできたりなんかしないもの。

かくして身も心もその人に心酔しきったあなたに、相手はこんなことを打ち上げる。「私、頼れる人がいなくて…」「彼女(妻)と上手くいかなくて…」。

聞いた途端、心の底からなんとかしてあげたいと思わずにはいられないあなた。今まで支えてもらった分、しっかり恩返ししよう!

そこからは形勢が逆転。相手に尽くそうとするあなた、あなたにワガママをいいまくる相手。要求はどんどん過剰になる。けど、やっと出来た「支え・支えられる」相手だもん、手放したくない。

かくしてあなたは支えるだけの立場に立たされ続ける。

「支える」の本当の意味

つまり、どこまでいっても、あなたの望む「支え・支えられ」の関係は成立しえない。

当たり前だ。なぜなら、「支え・支えられ」の前に、「自分で自分を支えることができる」ことが必要だから。自分で自分を支えられるほどしっかりとしていてこそ、相手を支えられるというもの。私の足元はおぼつきませんが、あなたのことは支えられます、なんて実現不可能。

支えてるつもりで、「役に立ってる自分」に酔ってるだけ。役立つことで、自分の存在価値を見いだそうとしている。そんな自己意識にまみれた支えなんて、相手のためになる支えなんかじゃない。

人を支えられるほどしっかりしている人は、相手が寄りかかってこようとしても、相手の問題だとしっかり割り切る。「頼れる人がいなくて…」と言われたから、「頼っていいよ」、という代わりに、なぜ頼る人が必要なのか考えるよう促すし、「彼女(妻)と上手くいかなくて…」と言われたら、「私が彼女になってあげる」のではなく、どうやれば彼女との仲を良く出来るか、を一緒になって考えてくれるだろう。私を何かの代替品のように扱って解決するやり方には手を伸ばさないんだ。

それは、相手に起こった出来事は自分とは切り離されたところで起こっていると強く理解しているから。自分で自分を支えられる人は、相手に取り込まれたりなどせずに、相手の問題は相手の中にあると、キッパリ線を引くことができる。だからこそ必ず相手の中に解決を見い出そうとする。

結果として、相手はお仕着せの解答ではなく、自分の心の中にある答えを導き出せ、私に「支えられた」ことになる。そう考えると、「支える」とは、私自身がなんの変化もすることなく、触媒として「相手がどうにかしたい」という悩みの反応を促進するだけの存在と気づく。

そう、あくまで触媒だ。

誤りを繰り返さないために

結局どこまでいっても人と人は合体して一つの生命にはなれない。そんな中で相手の力になる、支える、というのは、相手の考える力を鍛えてやることに他ならない。どんなピンチも自分の力で乗り越えられるように、考える訓練に付き合ってあげるだけ。そして相手にはきっと解決できる力が備わっていると信じてあげるだけ。

親子だろうが、恋人だろうが、仲の良い友達だろうが、相手との間に線を引き、一体化しようなどとは思わないこと。これはある意味、「いつかは、私の望む『支え・支えられ』る人に巡り会える」ということへの絶望かもしれない。だが、同時に「最初は気が合ったけど、やっぱり違った」という誤りを防ぐ手立てでもある。

べったりではなく、さらっと関わりあうことで、相手に対する強い感情を抱かずに済み、長く円満に付き合える。かりに、どうしても合わなくなったときでも、こういう時期なのだ、とすんなり離れられる。

人々はやたら「本当の友達」「真の恋人」と、奇跡的な出会いに期待を寄せ、胸を膨らませる。しかし実際は、40歳超えるとあわなくなる友達が続出、結婚しても1/3は離婚。若かりしあのとき感じたこの上ない一体感は、続かない。というより、そんなもん、最初からない。それにようやく気づく年齢にさしかかったのだ。もう奇跡的な出会いへの期待から卒業しよう。いつまでも分かってくれる相手を求めつづめると、周りから重い人に認定されてしまう。

人の役に立とうとしている自分はいないだろうか。わかり合える誰かを探し求める意識はないだろうか。その感情の源は幼き日の報われなかった思いにある。だがもう、我々はオトナだ。赤ちゃんのときのように誰かが守ってくれる世界など、手には入らない。

自分を生きろ。生きて、生きて、生き抜いた先に、自分の足で立つ感覚が宿り、ちょうどいい「支え・支えられる」人との出会いが待っている。