純粋な親切心でさえも、実はマウンティングだったことに驚き!!

困っていたら助けてあげたい、分からないことがあったら教えてあげたいというのは、純粋な親切心からくるものと思っていました。けれども、そのときの自分を見てると、そうでもなさそうなんです。

というのも、困っている人・分からない人を見ると、自然とある思いが湧き上がってきて、知らぬ間に助けちゃった、教えちゃったということがあるからです。ただの親切心ならば、冷静だし、心が熱くなったりすることがありません。相手が助かったり・分かったりすればいいだけなのですから。

それが心が強く動いている、ということは、それは親切心とは別の何かなのです。

それは本当に相手のためになってるの?

助けるというのは、すばらしい行為です。優しさの塊です。では、私達は何を思って助けてるんでしょう?

「あの人に良くなって欲しい」「こうすればもっとましになる」。たしかに優しそうです。では肝心の相手は?助けを求めているでしょうか?

そこで具体的な例で考えてみます。こんな経験ありませんか?

あなたは友達から「あんたにぴったりの相手(異性)がいる。紹介するけどどう?」と言われました。一瞬頭が「???」になったけど、「紹介してくれるんだ。付き合いたいと思ってるわけじゃないけど、まぁぴったりといってるし。」と気を取り直して、「うぅん。そうだね、お願い」と返事する。

友達は一人者の私を可哀想だから助けたいと思っています。肝心の私は、といえば…付き合いたいと思ってるわけでもない。

付き合いたいでしょ!と思う友達と、どっちでもいいやと思う私。ズレてますね。

そんなこと気にする間もない友達は、「紹介したくてたまらない、可哀想な私のために一肌脱いであげたい」という思いに囚われて紹介を申し出てきました。

他の例も考えてみましょう。

「病気なの」、と告白した途端、「あの治療法がいい」「あの人はあれで治した」とたくさんの情報が寄せられた。

SNSの発達した昨今、その数は膨大となり、頭はパンク寸前。助けたい一心でみんな情報を寄せてくれてるんですけどね。

病気だといいたかった私と、情報をあげたい相手。うーんこっちもミスマッチ。

これは、病気を告白した気持ちを尊重するのがいいんじゃないでしょうか。



以上のように親切心と名のつくものは、相手がやりたくてしかたなくなってやってることなんです。

なぜ気持ちを抑えられない?

本来であれば、誰の話か、誰が主人公かを考えなくてはなりません。それが分かれば、自ずと立ち位置は決まってきます。助ける方はあくまで添え物。添え物なら添え物らしく、流れに乗っていればいい。

でもそこに無理矢理流れを作ろうとする。いや、むしろ作らないと気が済まない。添え物なんてトンデモナイ、主人公じゃなきゃ気が収まらない。これはまさに、「アイツよりオレだ!」というマウンティングです。

「私の方がすごい!!」と認めさせることで、心がスカッとします。添え物なら到底味わうことのできないヒーロー気分を満喫できます。

まずはマウンティングの自覚を

でも、やっぱり疲れさせてしまうんですね。マウンティングされると、された側はどっと疲れます。

キャバクラ嬢が、オジサンたちの武勇伝を持ち上げてヒーロー気分を味合わせてあげたあと、裏で「やってらんねーよ」と愚痴るのと同じです。(そういう意味ではキャバクラはおじさんたちがヒーロー気分を味わえる場所ということかな)

人は「あなたがどうしたいか聞きたいわ」と言われるとパワーがみなぎり、「オレの話を聞け」と迫られるとげっそりします。

助けられる側がげっそりする方に回らなきゃいけないなんて、なんともいえぬ気持ちになります。

それでも、これが人間界の、そこらへんに転がってる「普通」です。優しさの笠を来たマウンティングです。

だから本当に人を助けたいなら、胆力を身につけましょう。

流れを変えない、相手の行きたい方向を見極める、添え物と自覚する。いうなれば悟りを開いたお坊さんみたいな役に徹する。

そんなの出来っこないと思う人は、無理に目指さなくてもいいと思います。ただ、親切の最中、相手がげっそりすれば、知らず知らずにマウンティングしてしまっているということくらいは自覚しましょう。

案外やっちゃってるとき、多いですよ。