思ったことを口にするのは「虐待・いじめ」かもしれない、と疑おう

泉ピン子さんとえなりかずきさんが「渡る世間は鬼ばかり」で共演NGになっていることがニュースになりました。えなりさんは泉さんと共演すると発疹が出てしまうほどストレスを感じるようです。

泉さんは、みなさんご存じの押しの強いベテラン女優さんです。その押しの強さが災いして、質実な生活をしているえなり家に不要になったブランド品を売りつけ、えなりくんの母親にも不満をもたれてしまったとか。

なるほど。押しの強さは、周りにストレスを与えてしまうんですね。

そういえば、泉さんほどでなくても、思ったままに行動し、まわりを痛めつけている人はたくさんいます。そして自分もその一人かもしれません。私達は、他者にやっていいこと・やってはいけないことの見分けがついているのでしょうか?

いじめを容認するかのような会話

日本は何をしゃべってもいいし、何を意思表明してもいい社会です。だから思ったことを口にするのを躊躇しません。ただ「あからさまに差別用語を口にするのはやめましょうね」、という教育は受けています。

ですから、ハゲてる人にハゲ!、太ってる人にデブ!、障害者に○○できんヤツ!とはいいません。

しかし、母親が娘に「あんたは見た目イマイチだから、勉強頑張りなさい」「お母さんの頃はあんたの年で結婚して、子供産んでたよ。いい人いないの?」と平気で口にします。これは、いってもいい言葉と認識されているからです。

そして言われた側はどう感じているかというと、「クソババアが!!こっちだって言われなくても十分わかってんだよ」とかなりストレスに思っている。差別用語でなくても、人を傷つける言葉は存在しているのです。

では、人を傷つける言葉と傷つけない言葉の差はどこにあるのでしょう。それが今日お話したいトピックです。

思ったことを口にするのはマズい

あなたは日々、どのような言葉を口にしていますか?

ほとんどの人は、「思ったこと」を口にしている、と思います。今朝みた花が綺麗だった。電車がとんでもなく混んでいた。たまたま買ったお菓子が驚くほど美味しかった。今日は仕事が立て込んでいるる…といった心の中にあるものを、ドバドバっと吐き出しています。

一回の検閲もなしに。

そうです。検閲もなしに、です。これが肝で、やはり自分の外に出すといった時点で、聞くだれかが存在するのだから、「これ、言われた人がどう思うかな?」というチェックは必要なのです。

試しにあなたが傷ついたと思う言葉を思い出してください。たぶん言った側はなにげに口にしたような一言だったはずです。言った方はなにげだった、けど言われた方はそうは感じなかった。この意識ギャップがある限り、傷つけた・傷つけられたという関係を完全になくすることはできません。

話題の作り方

ただ、それをあまりに気にしていては、誰にもなにも言えなくなります。なかには言葉に過敏な人がいて、ちょっとでもマイナスなことをいうと、自分ごとと考え、「酷いことをいった!」と被害者面をしてきます。

そういう相手は、はっきりいってメンドクサイし、関わりたくない。

だから会話には検閲はいる、けど検閲せねばに押しつぶされるとなにも言えなくなる、というジレンマが常につきまといます。このことが、会話力の発展に歯止めをかけているように思えてなりません。

そこで、どうするか?といえば、自分から発する会話ではなく、相手の中にあるものを拾う会話を心がければいいと思うのです。五感を使って相手を知ろうとするところから始めれば、傷つける回数は格段に減らせます。

家庭でこそ拾う会話をしよう

コミュニケーションに不自由さを感じている人(コミュ障)に話を聞くと、子供のころ関心を向けられた経験がゼロです。家庭では親や親戚、近所の人が主語になることはあっても、子供が主役になることはない。

子供の意思が拾われてきませんでした。

そういう子は、親を手本に思ったことを一方的に口にするようになります。会話という体をとりながら、言葉投げつけゲームに興じることとなるのです。

となれば聞かされる一方の周りは、疎ましさを感じて離れていくでしょう。そしてまた一人になって、次のターゲットを狙い、しつこく話しかけて嫌われる。この無限ループです。

我が子が、人様から振り払われ、眉をひそめられるのを見るのは、親として見ることほど辛いものはありません。ならば、家庭の中の会話のあり方から変えてみるのがいいと思いませんか?

詰問ではなく、包み込むことから

子供を主語にするからといって、親の訊きたいことを尋ねるのは間違っています。それでは、「親」が主語になってしまいます。

やはりここは子供の話したそうなこと、たとえば今大変だと思っていること、とか、こうなったらもっといいのに!と思うことなど、心の底にため込んでいそうなことを聞いてみるとか、大好きなもの・夢中になってることを尋ねてみるなど、子供の心の扉がが開くようなそういう会話を心がけるといいと思います。

親はあくまで拾い役で、主役は子供。子供の行きたそうな方向へ舵取りしてやる。そういう子供の思いを包み込むことから始めてみると、スムースな船出となることでしょう。

補足

いろいろな掲示板を見ると、言葉投げつけゲームの多いことに驚かされます。

たとえばある病気の掲示板を訪れると、みなさん、「私はね…」と経験を綴ります。さらに誰もが「この病をしって欲しい!」といいます。

ではお尋ねしますが、それを病と無関係な人が知って何がお得ですか?

厳しいようですが、これが現実です。知って欲しいと訴えてる人でさえ病におかされるまで、そんな病、知ったこっちゃない生活を送っていたのです。自分が出来てなかったのに、立場が変わったらコロっと言い分が変わるというのは、あまりに身勝手です。

たしかに病にかかった人への配慮は必要です。だからといって病になったら思ったことを口にすれば耳を傾けてくれる、と思うのはザツな思考です。知って欲しいなら、知って欲しい相手が知りたくなるような工夫が必要なのです。

どんな立場におかれても、相手の心を拾うことを端折ってはなりません。

令和になった今こそ、なにが尊重(拾う)でなにが横暴(投げつける)か判断する分かれ道に我々は立たされていると感じます。

ほんとうに思ったことを口にしてよいのでしょうか?その基本の基本から考えてみてはいかかでしょう。