言葉のない世界を想像してみた

先日、ノンバーバルコミュニケーションについて書いた。
その延長で、一切の言葉を使わないで生活すると、どうなるだろうと想像してみること
にした。

言葉があるからこそ弊害がある。例えば、自他同一化である。

「結婚しないの?」「年収が高い方がいいよ。」「勉強しなさい。」
これは発言者の考えを押しつけている言葉である。

結婚しないの?==世間一般である年齢になったら結婚するのは当然の風潮。
                       親も結婚しているのだから、あなたも結婚しなさい。

年収が高い方がいいよ==お金があると生活に不自由しない。なによりも経済的な
                                満足が幸せに繋がるはず。

勉強しなさい==勉強できれば幸せになれるはず。仕事も結婚も出来る。

そうかなあ?人が幸福を感じる要素はその人によると思うけど。

そこでもし、言葉がなかったら、発言者に当たる人が幸せな結婚していて、年収が
高いことでその人が満足した生活を送っていて、勉強するとよりよい生活ができる
ことを態度で示す以外、他者に理解しなさいというのは不可能になる。

人は見たことのないものは信じられない。感じたことのない感情は理解できない。
言葉でいくらでも理想論は述べられるが、相手には届かない。
言う前に実際やって、その言葉の有効性を証明した場合にのみ、言葉が理解
されるのだ。

あーしなさい、こーしなさいという人に限って、本人はなにもできていない。
それを「私を反面教師にしなさい。あなたのためよ。」といっているヤツは要注意だ。
反面教師ならば、言葉にすら耳を傾けなくてもいいと思うし。

「言うは易し、行うは難し」である。言葉を使わなくても伝えることが出来る人から
学べばいい。
なにもできてないヤツの言葉なんてスルーしよう。