フォロワーしかいない世界

私の周りには、相手の言うことには従うけど、自分の意見を述べないフォロワー
が多い。
誘って欲しい、お店を選んで欲しい、来る人の人選をお願いしたい・・・
あのぉ~あんたの意見は?

自分で意見を出せば失敗したとき逃げ場がなくなる。(と思っている)

だから意見を言わず、なにかあったら相手の責任にする。それが気楽
ってな訳である。

私はこーいう奴大嫌いなんだけど、まあタダ嫌いってだけじゃ脳がないから
掘り下げてみよう。
失敗したときがネックとなって、自分で決められない。
じゃあ、失敗ってそんなに悪いことなのか?ってところである。
むしろ失敗しない人間を見てみたいものである。赤ちゃんのときからスーパーマン?

親が何かにつけ「失敗するのは良くないことよ」と子に刷り込み、さらには「失敗したら
とりかえしがつかないよ」と教えたら、子は冒険することを諦めてしまう。
さらに目の前に失敗した人がいて、みんながよってたかって「やーい失敗しや
がった!」とか、「失敗の責任はおまえにある!」と叱咤していたら、そりゃー
判断することをやめちまうわな。

ということは、ある人間がフォロワーになったのは、なにがしかの環境によって
失敗を恐れるようになったからではなかろうか?

けど、考えてみて欲しい。一生誰かに判断してもらえる世界は継続するのだろうか?
誰かが自分の進学先を見つけてくれ、誰かが就職先を探してくれ、誰かが結婚相手
を決めてくれ、誰かが子供を産むか否かを考えてくれ、誰かが子供の進学先を
決めてくれ、誰かが・・・やめとこう。
死ぬまでレールの敷かれた人生などあり得ない。どこかで判断する岐路に立たされる。
そこで初めて判断する場合、判断の思考過程、判断の基準はどうする?
失敗した人は失敗から多くを学んでいるので、自分の中に判断のためのスキルを
ため込んでいる。ところが判断してこなかった人は、老齢になっても、間違えた
判断をする。それこそが一番かっちょわるくね?

失敗が怖いのは分かる。けどあんたの周りの人が信じられる人ならば、失敗しても
温かく迎えてくれるよ。そしたら、少しずつ失敗の傷が癒えて、またなにかしらんの
判断をすればいいさ。経験して初めて判断力が向上するというもの。
少なくともそうやっていれば、かっちょわるいじーちゃん・ばーちゃんにはならんで
すむやろ。

脱フォロワー。