受け入れてくれる人が現れる日を待つと寿命が尽きてしまう

アダルトチルドレン(AC)が、喉から手が出るほど欲しいものは、「誰かに受け入れられて、安堵できること」。

虐げられてきた自分を拾い上げてくれて、気持ちを引き出してくれて、たとえ意見がぶつかったとしても自分の方を優先してくれる、なんならぶつかったことを謝ってくれる。そんな関係を求めているように思えてなりません。

どこまでも自己都合の、甘えの究極みたいなのが、孤独から我を救ってくれると信じているのです。

そのような世界は、きっとストレスもなく、自信がつき、ここにいていいんだ!という気持ちにさせてくれるでしょう。

では、それを待っていていいんでしょうか。いつか、訪れる日がくるんでしょうか。

同じ過ちを繰り返してしまう

どんなわがままも受け入れてくれて、24時間いつでも対応してくれる人のいる世界、というのは、素晴らしいですよね。でも立場を変えて、どんなわがままも受け入れなくてはならなくて、24時間対応しなくてはいけない世界に身を置くのは、大変そうです。

まるで無限の労働を強いられてるかのよう。

ACが期待するのは、この無限の労働をしてくれる救世主の登場です。可哀想な私には、究極のケアがあって然るべき、そうじゃないと、傷ついた心は癒やせない、と。

ゆえに、その片鱗(ちょっと優しくする)をみせたが最後、ものすごい勢いでまとわりつきいてきます。人生の今までの苦しみを、ここで一気に解消しようとするのです。

ですが、しょせんただの他人な間柄。面倒をみる謂われはありません。いっきに来られる迫力と、理不尽な要求に嫌気がさして、彼らは早々に立ち去ります。そしてACはまた、孤独に落とされます。

なんどやっても、どう工夫しても、いっつもこれの繰り返し。なので一生涯ここから抜けられず、眉間にしわを寄せて、毒を吐き散らしながら死んでいく人も珍しくありません。

自分を満たすことを人に委ねてはいけない

あなたは、人生の貴重な時間をいったい何に使うのでしょう。

私を受け入れる人を待ちわびる時間ですか。周りを恨む時間ですか?

そう考えたとき、いかに無駄な時間の使い方をしているかを知ることになります。なぜなら、待つことは実質なにもしていませんし、恨むのは周りを斥けるだけで何も生み出さないからです。

そんな時間の使い方を、なんとか有効な、意味あるものにできないでしょうか。誰かを笑顔にするために使えないでしょうか。

少なくとも自分を笑顔にすることに費やせないでしょうか。美味しいものを味わわせてやる、綺麗な景色をみせてやる。そういう自分ケアに使った方が、同じ時間でもずっと有意義にしてあげられます。

仏教の教えに、なにをおいてもまず自分を満たしなさい、というのがあります。自分を満たしてからしか、人は外に目を向けられません。しかし、受け入れられたい人は得てして自分は満たされてないのに、人の世話ばかり焼こうとします。

世話をして、感謝されたり、存在意義を認めてもらって、受け入れられたと感じたいからです。

自分を満たす手段を他人に委ねてしまっているんですね。これが間違いです。自分を満たすのは、あくまで自分。

この考えに頭の中を書き直せるかどうかで、人生の豊かさが変わるといっても過言ではありません。

あなたは、受け入れてくれる人を待ちわびる人生を選びますか?それとも自分で自分を満たす人生を選びますか?
どっちが幸せへの近道か、考えてみてください。