自己責任とつっぱねるのは対話の遮断

昨今自由を認められている代わりに、自己で責任を負えという風潮が強い。
大学を出てフリータをやるのも自由、ひきこもって親の年金にかじりつくのも
自由。けど年を取って雇ってくれなくなっても自己責任だから、自分でなんとか
してね、能力がなくて就職できなくても、社会は知らないよ ってなもんだ。

自由ってなんなのか?この側面だけ見ると、放任主義に見える。
社会を構成する人間一人一人が自分を守ることに精一杯で他人のことを見なく
なっている。
社会が衰退すれば、この風潮はますます強くなる。

いつからなんだろう?このような放任社会が増加したのは?

先日昼に放送されていた「思い出にかわるまで」(主演:今井美樹)を見た。

ちょうど放映されていた時期は、バブル崩壊近くだったと思う。(適当です)
台詞を吟味すると、恐ろしくモノローグで固められている。
心の受け渡しがなくて、ただ言葉を投げているだけ。
それでも誰も違和感を持たなかったということは、これが当時のコミュニケーション
っだったわけだ。

バブルの頃はそうやってモノローグ的にコミュニケーションしていても、なんとか
経済や社会が回っていたから、今ほど深刻に困る人はいなかった。
ところが経済が衰退すると、コミュニケーションによる繋がりがないために
人間の内部が閉塞的になり、排他的になり、そんでもって、お金がなくなり、完全に
孤立してしまう。
そしておきまりの「自己責任でしょ?」という台詞が闊歩する。

その台詞を言う人は大概「努力」をしてきた人達だ。
「努力」とは、自分の意志をねじ曲げて、社会に合わせて生きてきた行為を指す。
「我々は苦しい思いをして『努力』をしてきたんだから、報われるのだ。
『努力』をしていない人間が、オレらと同じ立場を手にできる程世間は甘くないよ」
と言いたいのだろう。

同意できなくもない。
けど、本当にただ好きなことをしてきた人だけが、困窮状態に陥っているのだろうか?
それなら、イチローは困窮状態だろうか?

実は、自分の好きなことに熱中した人が成功を収めているのであって、熱中
できなかった人の内、①世間のものさしにあわせて「努力」してきた人の一部が
社会に必要とされるポジションを手に入れ、②同じ「努力」をしても、「努力」の方向が
本人の素質とかけ離れていた人が、精神的に破綻し、③本人が熱中したくとも、
経済的・家庭的理由によりそれを許されなかった人が、社会に結びつくスキルを
手にできなかった のだ。

現在の状況だけ見て、過去のツケがきただけだろっというのは、あまりにその人
への理解が雑すぎないだろうか?

私は「自己責任でしょ」という前に、もう少しだけその人の話を聴くくらいの寛容さ
はあってよいと思う。
聴いた結果、その人が中学や高校のころに、勉強もせずに遊んでいたとして、本人は
心から遊びたかったのだろうか?
家のゴタゴタから目をそらしたくて、友達のところへ逃げていたのかも知れないし、
親が「勉強なんてしてなんになる?」と勉強を軽視する態度をしていたのかもしれない。

人生の責任を取るのは間違いなく本人だ。
他人が金銭的援助をするのも正しくないし、代わりに犠牲になるのも間違い。
ただし、本人が自分の畑を耕す為のスキルを身につけるために周囲が協力
するのはアリだと思う。

耕せないのは、耕す前にやる気をそがれているのかも知れないし、やり方が
分からないのかも知れない。
そこらへん聴いてくれる相手がいれば、人間はいつでも畑を耕せる実直で堅実な人柄
に生まれ変われると思うなぁ。
対話って、人間が変わるのに一番役に立つのですぞ。