早くから受験を体験する子は二元論に陥り易い

最近の子は中学から受験するらしい。なんとも大変なご時世です。

かくいう私も、小学校以外(幼稚園から)すべて受験だらけでした。
それも、周りはだれも受験していないのに。
どんだけ親の見栄ですか!

ネットニュースで「中学受験失敗の子供「地元の中学に行くのは恥ずかしい
という記事を見つけました。
要約すると、小学生が第一・二志望に不合格、すべりどめには通いたくないけど、
周りの子に受験するんだといった手前、公立の中学にいくのははずかしい 
ということらしいです。

考えてみたら、小学生の大半は公立の地元の中学に行くのだから、なんにも

恥ずかしいことなどないのに、勝手に自分を誇大妄想化して、天才だと思うから
受験しないで進学できる中学に通うことを恥ずかしいと思ってしまう。

ところで、愛のない家庭で得られる唯一の愛は親の期待に添ったときです。
親は手放しで喜ぶ。それを見て、子供はやっと安心と安全を感じ取る。
この小学生は自分を認められる唯一の手段にすがりつき、そして散った。

当たり前ですが、受験受験と煽り立てる環境で、ゆっくりと勉強を楽しむ余地など
どこにもありません。
ちょっと模擬試験が悪かっただけで、「あーまたダメだった」と自分に烙印を押し、
親から「こんな成績じゃ、××中学に入れないわよ」とさらなるパンチを食らう。
親から捨てられたらどうしようという不安で頭がいっぱいの人間が、冷静に勉学
にいそしむなんて、できませんね。

受験生活の中では、合格・不合格というラインを常に見続けなければなりません。
真ん中とか、もっと別の軸とか、そういったあいまいさや別の価値観を知る機会
がない。
ばっさりといい・わるいを見分けるだけの作業をし続けると、全てのことに
「これはいいの?悪いの?」というとんでもなくおおざっぱな区別をするように
なるのです。

そういった価値観の中で生活していて、もし自分が悪いの方にいってしまったら
どうするのでしょうか?
いい・悪いの二元論に縛られる人は、ちょっと自分が悪い方にいってしまったら、
まるで世界が終わったかのような錯覚に囚われてしまいます。

人間は多様な価値観と、未知なる力を持つすばらしい生き物なのに、そこには
まったく目を向けなくなる。
受験で失敗した自分は、「負け組」とラベリングし、一生学歴コンプレックスなるもの
を背負う。

ずいぶんとさもしい人生です。

競争社会ですから、自分を奮い立たせるために勝負の世界にチャレンジすることは
いいことです。ただしチャレンジした結果、思うようにいかないときに、争った次元以外
から何を得られたかに気づけるか否かで、未来の豊かさは変わります。

絵に描いたようなエリート人生が、豊かというわけではありません。
例えば勤めていた会社が傾いて、部長である自分がリストラを指揮する役になった
ときに、エリートには会社を去らなくてはいけない人の不安を、推察することすら
できません。
「会社が決めたから、ここから去って」と一言いえば済むと思っている。
けど人間はそんなに簡単にできていません。
事実以前に心がある。
そこを見間違えると、手痛い失敗(リストラの反逆として訴訟を起こされるとか)が
返ってきます。
そのときエリートってなんか役に立ちますか?

合格した人生には合格した経験が、不合格の人生には、不合格したなりの別の価値
をもつ経験が宿ります。
どっちも貴重な経験です。
それを、後者だけ価値がないと切り捨てるのは、あまりにも短絡的すぎませんか?

多様性の見えない人間は、いづれ淘汰されます。
世の中はそれほど複雑化しているのです。

しやなかで、図太く、繊細に生きることこそが、未来を切り開く力となります。
この小学生君は、いま二元論に縛られているかも知れません。
しかしいつの日か、もっと勉強して、価値の多様性に気がついて欲しいと思います。