独身の高齢者は自分を愛してくれる神を求めている

高齢者の悩み・・・それは、誰も私を気に掛けてくれない ということ。
とくに伴侶のいない人の悩みは切実だ。
周りは夫婦仲良く暮らしている(ように見える)。でも自分は朝からコンビニ弁当。
毎日テレビを見て、誰とも話をせずぼーっと暮らしている。
たまの電話は、勧誘ばかり。友達欲しい(涙)。

 一念発起して、お見合いパーティに挑んでみたけど、自分の好みの人はいない。

どうせ財産目当てだろう/介護要員目当てだろう と斜に構えてしまい、誰と
どう話をして良いか分からないまま、お開き。なんのためのパーティだったのか。

えー、ずいぶん暗い話をしてしまいました。気分がふさいだ人、許してちょ。

ただ、このような現実がある人もいる。

若いときは、体力、知力、容姿 があり、どんな人でも多少自分を必要として
くれる環境があり、気にかけてくれる親や仲間がいる。
ところが、年齢を重ねるにつれ、人はより小さなグループに分かれ、家族と
暮らし、気の合う仲間と時を過ごすようになる。
そこからあぶれた人は必然的に、ひとりぽっちになる。

これは自然に起きる流れなのだと思う。

では、自分はどういうポジションを選択するのか。これは個人で選ぶことが出来る。
もし、人との関わりを持つポジションを求めるならば、他者に対する尊敬の念、
他者への愛を持っていることを要求される。

要求されるということは、人生のどこかでそれを自主的に学ばねばならない。
しかしながら、他者を知らない人ほど、他者と接する機会が少なく、また少ない
がために、他者の考えに耳を傾けたり、他者の心を見る経験に乏しいため
自分よがりな発言を繰り返して、周囲から疎まれる。

高齢者が質問板や掲示板に「孤独なんです、結婚したいんです、どうしたらいい
ですか?」や「仲間ができなくて寂しいんです。」といった類の悩みを打ち明けて
いる。
こういう人達は、自分が周囲を幸せにしたいと願って、努力したことはなんですか?
って尋ねられたら、答えられるのだろうか。

神は、エゴにまみれた傲慢な人でさえも、愛してくださる。
人は、相手から自分が愛されていると感じて、相手に愛を返す。
世の中は、人で構成されているのだから、まず相手をちょっと褒めるだとか
相手の話を聞くなどして、愛を届けよう。そしたら、相手も愛を返してくれるかも
しれない。

いつ頃から人間は神を求めるような夢見がちになったんだろう。
現実を見据えれば、愛を渡す方が先だなんて、すぐに分かるのに。
神というファンタジーを求めるなら、幸せは頭の中でだけ妄想して感じればよい。
なにも現実まで、妄想と合致させることはなかろう。