完璧でなくてもいい、分からないことから始める勉強法

プログラム言語Rubyの開発者のプレゼン記事を読みながら、こんなにも
プログラムに長けた人でも、プログラムに接した最初は、分からないこと
だらけだったんだ!と知ってから、自分の過去の勉強法の間違いに気がついた。

親は私に”完璧であれ”と躾けた。

だから、できないということが幼い私にとって恐怖だった。
本来学問とは、初めて接する概念だから、飲み込むのに時間がかかる。
ところが飲み込もうとあがいているときは、出来ない自分がいるわけで、その
出来ない自分と対峙するのが怖くて、えいやっと覚える手段に出ていた。

そして、学業を終了し得た頃、「で?私何を学んだんだ?」ってなことになったのだ。

人という対象を相手に日々悩んでいる現在、自分は学問としての心理学ではなく
生活に密着した、問題に密着した心理を考えている。
その考えは、けしてあっさりと答えを与えてはくれず、何日もうんうん悩んで、やっと
おぼろげに見えて、それから数ヶ月たってから「なるほど!」と分かる過程を経る。
これが身体を持って、学ぶということではないかと思うのです。

つまり、分からないが前提で、そのあと考えていたら、あるとき答えが降りてくる
というのが学ぶということであって、教科書読んだらぱっと分かるのは天才なのです。
学校から帰ったら復習しましょうというけど、復習というより、悩みましょうというのが
正しい。
だって一回習って何が分かるさ。
分かるって言うのは、自分の言葉で置き換えられるくらい、自分の身に浸透する
ってこってすぜぃ。
悩んで悩んで悩んで、あーーーー、おっ!みたいな感じ。

出来ない自分にフォーカスすれば、その苦しい状態から抜けたくて、安易に
暗記といった手法に出る。
でも学問はそんな甘くない。
もっと悩むこと前提に学問を教えれば、素直に学べる子供が増えるのではないか
と思った次第です。