入られたくない。でも寂しい

動物は自分のなわばりを持っています。
人間はパーソナルスペースと言って、親しさに応じて距離の変わる入られたくない領域を持っています。
それとは別にもう一つ、心理的テリトリーを持っています。

親しくなると心理的テリトリーは狭まります。

だけどこれ以上は誰にも入って欲しくない心理的テリトリーがあります。
よく言われる”親しき仲にも礼儀あり”とは、相手の心理的テリトリーに踏み入ってはいけないことを指します。
そこへ踏み入られると、どんなに親しい間柄ても嫌悪感が湧きます。

しかし親しくなると、身勝手に心を許し、ずけずけと相手の心理的テリトリーに入ってくる人がいます。
そういう人の被害にあって、人間不信になる人がいます。
それもかなり深刻な被害にあった後です。

被害にあいやすい人は、大人しくて相手の言うことを大概聞き入れる心優しい人です。
なぜなら被害者は、「寂しい」「一人ぽっち」という恐怖に勝てないからです。
その恐怖を味わうくらいなら、心理的テリトリーに踏み入られる不快さには目をつぶろうと思っているのです。

人との付き合いが、[孤独感 vs 嫌悪感] のせめぎあいみたいになって、ちっとも楽しそうではありません。

大抵は孤独感に軍配が上がるので、嫌悪感には目をつぶります。
そうすると加害者は、「相手が文句も言わないのだからいいか!」とつけあがります。
心理的テリトリーはますます侵略され、息も出来ない程の圧力がかかります。
そうなって、なにかが心の中で弾けます。
それが自分に向けば、酷い抑鬱状態、相手に向かえば強い攻撃性になって現れます。

攻撃性として現れた場合、一旦フタがパァーンと開いて、スッキリした後、あんなに怖れていた孤独がやってきます。
でも、もう元には戻りません。
そして思うのです。「人間なんて信じちゃいけない」・・・と。

しばらくして自分のいった事に後悔し始めます。
そのうち、生きる気力さえ失います。

なんで、こうなっちゃったんでしょう。
どこで歯車が狂ってしまったのでしょう。
たまたまつきあった相手が悪かったのでしょうか。


違いますね。


孤独を怖れすぎたことが原因です。
[孤独感 vs 嫌悪感] という構図を自分の中に作ったことが根源です。

人付き合いは、嫌な物から逃れるための手段ではなく、人生を豊かにし、知性を磨き、慈愛の精神を育むためにあります。
自らを幸せにするための手段ならば、幸せを求める気持ちが人付き合いの原因でなくてはなりません。

孤独はどこまでいっても、ぬぐい去ることは出来ません。
生きていることが孤独と隣り合わせなのです。
だったらいっそう、孤独さんを受け入れてみませんか。

孤独前提の人生なら、嫌悪感を感じたとき、「嫌です」とはっきり言うことが出来ます。
人の嫌がることをやる人なら、そもそも親しくならなくて結構なのです。
離れるべき人を放し、近づくべき人と親しくなることで自然と心理的テリトリーを守りながら人付き合いの出来る環境が構築されます。

孤独を怖れる心は癌に似ています。
一度持てば、生活のあらゆる所に巣くいます。
そして最後は自分の心を壊してしまう。

どうですか?孤独を怖れるってことが恐ろしいでしょう。
孤独さんともっと仲良うなってやってくださいな。